「是の火や生命の水と別体にして相和す。相合ふて神息全し。生命の生命は、神の水火に在るなり。夫れ聖言は聴き難し。然れども人誠に内に順なれば、聴き難きの言と雖も聞へざるを憂へず。其心至善を欲すれば、静息に於て神の安之と偕にす。」
新井奥邃、『聖言』、140
「この火はいのちの水と別のものでありながらお互いに調和している。この二つが調和して神のいのちがあふれ、神の平安が全きものとなる。いのちの中のいのちは、神の水と火に存在するのだ。聖書の言葉は、聴き難いものである。しかし誠実に従う心を持つならば、聴き難い言葉といえども、聞こえないことを憂える必要はない。その心に善に至ることを願うならば、静かにいのちにおいて、神の平安がともにあるだろう。」
火、すなわち激しい情熱をもって生きるいのち。水、すなわち渇きを豊かに潤すいのち。この二つのいのちを調和の内に生きるならば、そこに神さまの平安があふれるのです。聖書の言葉は、なかなか難しいものかもしれませんが、少々難しくてもいいではありませんか。しずかに耳を傾け、心のなかに火のいのちと水のいのちを調和させているならば、神さまの平安に満たされるのです。
礼拝において、日々のデボーションにおいて、そのように生きることによって、平安は確かなものとなるでしょう。
〔聖書の個所〕
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
(ヨハネ20章19~23節)