カテゴリー: 新井奥邃

  • 「神に事へざれば信者に非ざるなり。/徧く人を愛せざれば信者に非ざるなり/其の利慾を殺さざれば信者に非ざるなり/其の事業に実務せざれば信者に非ざるなり/其の信の生命を保たざれば信者に非ざるなり/万事に当りて真面目ならざれば信者に非ざるなり/其の宗派を離れざれば真面目なる能はざるなり」

    「神に事へざれば信者に非ざるなり。/徧く人を愛せざれば信者に非ざるなり/其の利慾を殺さざれば信者に非ざるなり/其の事業に実務せざれば信者に非ざるなり/其の信の生命を保たざれば信者に非ざるなり/万事に当りて真面目ならざれば信者に非ざるなり/其の宗派を離れざれば真面目なる能はざるなり」

    新井奥邃、『聖言』、178

    「神に向かって行動しないならば信仰者ではない/あまねく人を愛さないならば信仰者ではない/自分の中の利欲を殺さないならば信仰者ではない/自分のなすべきことを実際に務めることをしないならば信仰者ではない/自分の信仰によるいのちを保たないならば信仰者ではない/すべてのことにおいて真面目でないならば信仰者ではない/自分の宗教、宗派を離れることをしないならば真面目になることはできない」

     信仰者は、つねに神さまに向かって行動し、すべての人に愛を傾け、自分の中の私利私欲を殺し、行動の人、努力の人、そして神さまの与えてくださった永遠のいのち、信仰によるいのちに生き続ける人です。ですから信仰者はつねに喜びがあります。
     また信仰者は真面目に人生を生きます。真面目とは、真剣な態度で、まごころがこもっていて誠実なこと、です。冗談半分ではなく人生を生きるのです。ですから信仰者の喜びは、冗談半分の冷笑や皮肉とは無縁です。
     真面目になるためには、自分の宗派を離れなければなりません。プロテスタントにはさまざまな教派がありますが、それらに固執していては真面目になることができないといいます。それらに固執しているならば冷笑と皮肉に生きることになるのです。さらにはローマ・カトリック教会、東方教会に向って心を開き謙遜に学ぶことも大切なことです。違いが相手を否定する心を生み出しているとするならば、もう一度その違いを学ぶことが必要でしょう。もしかしたらそんなに違いはないかもしれません。また誤解しているところが大きいかもしれません。真面目に信仰を考えて、真面目に信仰に生きようとしているならば、自分の立場に固執せず、広やかな心を持たなければなりません。

    〔聖書の個所〕

    しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
    (ガラテヤ5章22~26節)