カテゴリー: 新井奥邃

  • 「約翰(ヨハネ)傳福音書は其の筆者の誰たるに拘はらず生命書の一にして、之を読み又之れを読み、之れを感じて又感ずる時は、至近至親にして亦言ふべからざる者有るなり。」

    「約翰(ヨハネ)傳福音書は其の筆者の誰たるに拘はらず生命書の一にして、之を読み又之れを読み、之れを感じて又感ずる時は、至近至親にして亦言ふべからざる者有るなり。」

    新井奥邃、『聖言』、202

    「ヨハネの福音書は、それを書いたのが誰であるのかにかかわらずいのちの書の第一のものであるから、これを読み、また読み、之を感じまた感じる時、非常に近く非常に親しむこととなり、言葉では語ることのできないという者が存在する。」

     新約聖書のはじめにマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書があります。このうちマタイ、マルコ、ルカを「共観福音書」と呼びます。共通した観点から書かれているということでしょう。それに対してヨハネの福音書は独特の書き方をしています。いずれもキリストの公生涯について記されています。
     キリストの公生涯が書かれているといってもそれはいわゆる偉人の「伝記」ということではありません。また単純にキリストの公生涯を「記録」したものでもありません。
     キリストがお話しされていたように聖霊降臨において教会が生まれ、宣教が前進していく中で、キリスト者2世、3世が生まれてきます。次第にキリストの生き証人たちが少なくなってきます。そのような中で、キリストの言葉、キリストの歩みを書き留めなければなりませんでした。福音書は、マタイであるならば、マタイの教会(教団)、マルコであるならばマルコの教会(教団)が背景となって記されていきました。ですから福音書の書かれた背景には、教会があり、教会の信仰がありました。
     そのような中でヨハネの福音書は独特です。キリストはまことの言葉であると語ります。言葉に出会い、キリストにお出会いします。

    〔聖書の個所〕

    初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
    (ヨハネ1章1節)