カテゴリー: 新井奥邃

  • 「基督の食は生命の力なり。之を食ふ者は勢力衷心より興発す。是れキリストの分輿せらるる生命に係る。誠に能く之を受くれば、主の天父と一なるを体知するなり。」

    「基督の食は生命の力なり。之を食ふ者は勢力衷心より興発す。是れキリストの分輿せらるる生命に係る。誠に能く之を受くれば、主の天父と一なるを体知するなり。」

    新井奥邃、『聖言』、39

    「『基督の食』はいのちの根源であり力です。これを食する者は、勢力が心の底からあふれ出てくる。これはキリストが分け与えられたいのちに関係している。心の底から信仰をもってこれを受けるならば、天の父なる神さまと一つになることをからだをもって知ることができる。

     「基督の食」をどう理解するかによって少し違ってくるかもしれませんが、文脈から考えるとどうもこれは「聖餐式の番と杯」を指しているように思えます。もちろん聖書の言葉という理解も成り立つかもしれませんが。いずれにせよ、信仰を持って、本当に真心からこれをいただくならば、心の底から、生きる力があふれ出て来ます。神さまと一つにされていることをからだ全体で知ることができます。神さまに生かされていることを、知り味わう者とされます。

    〔聖書の個所〕

    イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
    (ヨハネ6章35節)

    私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
    (第1コリント11章23~29節)