カテゴリー: 新井奥邃

  • 「人は其の志を立つるや、常に最高の処に於てすべし。然れども最高の道は常に神の謙地に在り。故に至謙の処は即ち最高の処なり。故に人は謙道を履まずして高きに登る事永久に能くすべからず。斯の道や夫れ唯謙なり。是を以て之を履む者は、艱難ありと雖も必ず安んず。窮乏至ると雖も其楽みを失はず、其の據る所堅確にして履む所真実なればなり。」

    「人は其の志を立つるや、常に最高の処に於てすべし。然れども最高の道は常に神の謙地に在り。故に至謙の処は即ち最高の処なり。故に人は謙道を履まずして高きに登る事永久に能くすべからず。斯の道や夫れ唯謙なり。是を以て之を履む者は、艱難ありと雖も必ず安んず。窮乏至ると雖も其楽みを失はず、其の據る所堅確にして履む所真実なればなり。」

    新井奥邃、『聖言』、52

    「人はその志を立てようとするならば、つねに最高のところにおいて行わなければならない。しかしその最高の道は、つねに神さまによる謙遜の地にある。よって謙遜に到達したところこそ、最高のところである。こういうわけで人は謙遜の道を歩まないでは、高いところに登る事は永久にできない。この道はただひたすら謙遜の道である。このような謙遜によって歩む者は、たとえかん難があったとしても平安を失うことがない。窮乏の中におかれても喜びを失うことがない。このような歩みこそ確かな歩みであり、そこにこそ真実がある。」

     

     「クリスチャンの指導者がたどる道は、この世が多大な精力を費やして求める上昇の道ではなく、十字架にたどり着く下降の道です。・・・イエスの下降の道は、喜びと神の平安に至る道なのです。・・・その喜びと平安は、この世のものとは異なります。」(ヘンリー・ナウエン、『イエスの御名で』、84頁)
     この世界においては、高みに登ろうとするところが行き着くところは、人々を押しのけて行くところであり、孤独のところです。しかしそれは真実な高みではありません。本当の高みは、、人々を生かすところであり、人々と共に生きるところであるはずです。それは、謙遜のところでなければなりません。イエスさまの十字架に表わされた謙遜とは、自己犠牲の愛です。私たちも、そのような謙遜をもって進むことを目標として、日々の職務に精出すならば、共に生きることの喜び、生かされていることの平安を確かにすることができます。その喜びや平安は決して失われることがありません。

    〔聖書の個所〕

    イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。・・・イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。
    (ヨハネ13章3~17節)