カテゴリー: 新井奥邃

  • 「積善の因は善を積むの果を来し、不善を積める縁は更に不善を積むの応を招く。其の因縁之が果応を来たして、此れ又成つて因縁と為る。国の興廃存亡する所以の者、固より浅近に非ざるなり。」

    「積善の因は善を積むの果を来し、不善を積める縁は更に不善を積むの応を招く。其の因縁之が果応を来たして、此れ又成つて因縁と為る。国の興廃存亡する所以の者、固より浅近に非ざるなり。」

    新井奥邃、『聖言』、98

    「善行を積み上げることが原因となって、善行を積むという結果をもたらし、善行でないことを積み上げることが因縁となって、更に善行でないことを積み上げるという報いを招く。その因縁、これこそ果応をもたらし、これがまた成就して因縁となる。国の興廃存亡を左右する責任を持っている者は、とにかく浅はかで俗っぽくあってはなりません。」

     「積善」と善行を積むとしましたが、神さまのみ心を求めて、神さまを愛し隣人を愛する行動と言ったことではないかと思います。そういうことを積み上げて生きる人生には、さらに神さまを愛し隣人を愛する道が開かれていきます。逆に自己中心に生きるだけであるならば、さらに自己中心がも足らず諸問題が自分自身に起こってきます。
     愛がほしいと思うならば、愛に生きる道を選択しなければなりません。愛に生きるならば、また愛される道が開かれるのです。親切がほしいと願うならば、自分自身がまず親切に生きることです。
     もちろん聖書は単なる因果応報を語っているのではありませんが、蒔いた種は刈り取らなければならない、といったところが人性にあるとも語っています。だからこそ罪人でしかない私がこうして生かしていてくださるのは、まさに神さまのあわれみ以外の何ものでもないのですから、日々謙遜と感謝に生きなければなりません。そうして日々謙遜と感謝に生きるならば、また人生に豊かさをもたらしてくれるでしょう。
     為政者に限らずさまざまなところで大なり小なり責任をいただいている者は、常に思慮深く、慎重で謙遜に生きなければなりません。

    〔聖書の個所〕

    寄るベのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。
    (箴言19章17節)

    「悪に報いてやろう。」と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。
    (箴言20章22節)

    謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。
    (箴言22章4節)

    北風は大雨を起こし、陰口をきく舌は人を怒らす。
    (箴言25章23節)