カテゴリー: 新井奥邃

  • 「教育の教育は家庭の善教に由らずんばあらざるなり。字を習ひ物を知らしむるは所謂学校にて足らんも、人の子たるの道を学ばしめんには、到底適せず、父兄たる者能く之を知らざるべからず。其子供の良心を発揮して自慾に克たしめんと欲せば、其父母たる者当に自らを正うして、其身に於て之を家庭内に指導すべきなり。」

    「教育の教育は家庭の善教に由らずんばあらざるなり。字を習ひ物を知らしむるは所謂学校にて足らんも、人の子たるの道を学ばしめんには、到底適せず、父兄たる者能く之を知らざるべからず。其子供の良心を発揮して自慾に克たしめんと欲せば、其父母たる者当に自らを正うして、其身に於て之を家庭内に指導すべきなり。」

    新井奥邃、『聖言』、126

    「本当の教育は、家庭において善なる教えがなされていること、によるものでないなら存在しない。字を習い物事を知らすということならば、いわゆる学校においても事足りるであろう。しかし人の子としての生き方を学ばせるためならば、到底適切ではない。父兄である者はよくこのことを知らないでいてはいけない。その子ども自身の良心を育て、自分自身の欲望に勝たせようと願うならば、その父母である者は、まさに自分自身を正しくして、その身においてこれを家庭の中に指導すべきである。」

     家庭の教育力が低下しているといわれる現代。学校教育への期待は大きく、その責任は重く、教育の課題は多方面にわたっています。しかし、やはり家庭でなければ教え育むことのできないことがあるのです。親はその身をもって善なる道、人生を教えなければなりません。このことを親はわきまえ知らなければなりません。
     豊かな時代は何でも外罰的になるとある先生が言われました。豊かな時代は何でも他人の責任にするということです。家庭教育の不足を棚に上げて、学校教育に過度の要求をする親が増えているという状況を生み出しているのかもしれません。
     一人で抱え込まず、いろいろな人に相談して子育てをすべきですが、忘れてはならないのは、自分が責任者であるということです。人の責任になどしていられません。
     結局は、自分自身の生き方が問われているのです。

    〔聖書の個所〕

    ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。・・自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。・・
    (第1テモテ3章2~5節)