この力強い人が、一本の「れだまの木」の下に座して、その心は「わたしは先祖にまさる者ではありません」という思いに震えている。
これらの人々がほかの者たちの魂の配慮をする者となったのは、彼ら自身の魂の救いについての配慮からであった。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、321頁
第1列王記19章4節
2012年10月02日(火)
預言者エリヤはバアルの預言者と信仰の戦いをし障利するほどに力強い人物でした。そのエリヤがれだまの木(エニシダの木)の下でうずくまっています。どんなに信仰にあふれている人もときに落ち込むことがあるのだと思えるところです。
普段は信仰に力強く生きているのですが、ある時に落ち込んでしまうのです。普段ではない姿となるのです。
しかしリュティのこの文章は、力強い姿が普段の姿というのではなく、エニシダの木の下にうずくまっているのがエリヤの真実の姿であると語っているようです。ですから信仰の戦いに勇敢に戦い勝利しているエリヤの姿は、それ自体が奇跡なのです。
私もときに落ち込むことがあり、それはいつにない姿であると理解しますが、むしろ落ち込んでいるのが真実の自分であり、力強く歩んでいるときは、そこに神さまのお力が力強くあるのです。つまり奇跡なのです。