投稿者: 塩辛と お茶漬け

  • 今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る

    静まりの時

    • テーマ:回心
    • 聖書箇所:
    • 日付:2026年08月07日(金)

    27 「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。
    28 かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──主のことば──。
    29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。
    30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。

    捕囚の苦しみからの回復の預言だと思います。その中で、かつて「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」と人びとは言っていたが、その日、すなわち回復の日にはもうそのようには言わない、回復の日には、人びとは「人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ」という、とエレミヤは語りました。

    父の咎が子に報う、ということではなく、人は自分の咎のゆえに死ぬ。世代を超えた因果応報ではなく、責任はその人自身に報いがある。出生と同時に先祖の咎を背負うというようなことが言われた時代は終わる。誰でもその人生は自分自身が生きる人生となる。そこで自分の所業は自分に返ってくる。逆に誰でも新しく生きようとするならば、人生はそれに応えてくれる。そんな意味かも知れません。

    主にある者は、誰でも新しく造られた者です。出自、国籍、文化、ジェンダーに関わらず誰でも新しく生きることができる。そればかりか、今日という日も新しい日である。今日も新しい気持ちで生きることができます。