詩三編
2017年12月2日(土)

 いのり

つりばりぞそらよりたれつ
まぼろしのこがねのうをら
さみしさに
さみしさに
そのはりをのみ。

 鑿心抄

立てる十字架
立てるは胸の上
ひねもす
にくしんの蟲を刺し。

 網を投げる人

わたしはひねもす
あみをなげる
あみはおともたてないで
しづかにおりる
めにみえないあみ
わたしはあみのなかにゐる
それをひきよせるので
どこかで
おほきなてがうごいてゐる

〔山村暮鳥〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
368頁

「兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」(マタイ7・4)

山村暮鳥(やまむらぼちょう)は明治、大正に生きた群馬県生まれの聖公会の牧師で詩人。

釣り針が天から垂れ下がっている。人間は幻の小金の魚。人間は寂しさからその針を呑む。寂しさはそこでいやされるのでしょう。しかし針がのどの奥に引っかかっているのは痛みを覚えることであり、また自由ではありません。祈りにはもう少し違った印象があるのですが・・・。

鑿心抄(さくしんしょう)。鑿(さく)は「のみ」のことで、鑿心は深く心を探ることでしょうか。蟲(むし)は些細な事ということで、愛すべき肉親のちりのような小さな欠点や失敗をゆるせないでいることでしょう。十字架が胸の上に立っているということは、むしろ自分の心を見つめるということでしょうか。

網を投げる「私」の中に「私」がいるのですね。結局それを引き寄せるということで、大きな神さまの御手の中にあることを知るのでしょう。神さまを知ることは自分を本当の意味で知ることでもあります。あるいは自分をしっかりと見つめているならば、いずれ神さまにお出会いせざるを得なくなるということでしょうか。


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