〔使者〕
2014年4月29日(火)
「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」(マタイ10:8後半~10)
使者の委託と力は、ただイエスの言葉の中にだけ存在する。それゆえ、イエスの使者の中に、王によるこの派遣を無意味にしたり、他者を不信におとしいれたりするものがあってはならない。使者たちは、「本当の王にこそふさわしい貧しさ」の中で、自分たちの主の豊かさについて証しをしなければならないのである。
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イエスの使者の自由は、貧しさという点で、明らかとならなければならない。
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彼らが自分の奉仕を為すその自由において、彼らは宿と食物を、決して物乞いで得たパンとしてではなく、働き人が受けるにふさわしい報酬として、受けなければならない。イエスは彼らを、すなわち自分の使者を、「働き人」と呼ぶ。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、213頁f。
イエスさまからの恵みと祝福、救いは、ただで受けたものです。私たちの何かの「報酬」として受けたのではありません。このことが明らかにされることが、福音宣教において大切なことです。私たちは貧しい者なのです。
イエスさまからの恵みと祝福、救いは、ただで受けたのですから、ただで与えなければなりません。他だけ与えるということは、自己犠牲の中で与えるということではないでしょう。自己犠牲の中で与えたものは、自分の中の何かであって、神さまからいただいたものではありません。ただで受けたものだけを人々に与えなければならないのです。ただで受けたもの以外のものは、もしかすると「王による派遣を無意味にしたり、他者を不信におとしいれたりするもの」であるかもしれないのです。
ですから、その貧しさのなかで、奉仕するのですから、「宿と食物」は「働き人が受けるにふさわしい報酬」として受けなければなりません。そうでなければ、ただで受けたものを与えるということ、が成り立たないのです。ただで受けたものを与える、すなわち神さまの恵みと祝福、救いだけを与えることが成り立つためには、働き人は、その「野」において、野から「報酬」を受けなければならないのです。野は報酬を支払わなければならないのです。報酬を支払わずに受けてしまったものは、神さまからの恵みと祝福、救いではなくなり、その働き人の中に存在する何かになってしまうのです。その働き人の中に存在する何かは、たとえすばらしく愛に満ちているものに見えても、「王による派遣を無意味にしたり、他者を不審におとしいれたりするもの」なのです。
ですから、働き人は、働き場から生活の糧を得つつ、みことばだけを語ることに集中しなければなりません。
(祈り)
神さま、あなたのいのちのみ言葉を、いのちのみ言葉として、他者に伝えることができるように助けてください。
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