静まりの時
- テーマ:祝福を受けた人
- 聖書箇所:創世記48・8~16
- 日付:2026年08月28日(金)
13 それからヨセフは二人を、右手でエフライムをイスラエルの左手側に、左手でマナセをイスラエルの右手側に引き寄せた。そして二人を彼に近寄らせた。
14 ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。マナセが長子なのに、彼は手を交差させたのである。
病で臥せっていたヤコブでしたが、息子のヨセフが会いに来たとの知らせを受けて、力を振り絞って床の上に座りました。その前に座ったヨセフは、二人の子を祝福しようとのヤコブの言葉を受けて、次男のエフライムを右手で、ヤコブの左手に、長男のマナセを左手で、ヤコブの右手に置きました。右の手で祝福されるというのが、左の手で祝福されるということにまさっていて、二人の子を祝福する場合、通常は右の手による祝福は長男に対してなされることだったようです。それでヨセフはそのようにしました。
しかしヤコブはそれを逆にしました。長男のマナセに左手を置き、次男のエフライムに右手を置いたのです。しかもうっかりそうしたというのではなく、わざわざ手を交差させて、そのようにしたのです。
17 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭に置いたのを見て、それは間違っていると思い、父の手を取って、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
18 ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。こちらが長子なのですから、右の手を、こちらの頭に置いてください。」
19 しかし、父は拒んで言った。「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」
このことばの通りにエフライムの名を冠した部族は大きな存在となり、そこからサムエルも生まれました。
長男に優位な立場を持たせるのは、聖書に限らずどの文化の中にもあります。しかし聖書にはそれに対立するかのように、弟の存在に光を当てる場面があります。人間が当たり前のように思う文化や習慣にも神さまはその自由をもって対峙されるようです。私たちはときに神さま以上に宗教的になってしまうといわれることがありますが、私たちの信じる神さまはほんとうに自由なおかたなのだと思います。