主に信頼する者に祝福があるように

静まりの時 エレミヤ17・5~8〔実を結ぶ〕
日付:2024年07月08日(月)

「主はこう言われる。
 『人間に信頼する者はのろわれよ。
 肉なる者を自分の腕とし、
 心が主から離れている者は。
 そのような者は荒れ地の灌木。
 幸せが訪れても出会うことはなく、
 焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。」(5,6)

 「人間に信頼する」とは、この場合、「心が主から離れている」ということです。心が主から離れてしまい、人間に信頼する、人間のみに信頼する、肉なる者、目に見えるものだけに信頼する人生。そこには祝福がない。
 荒れ地の灌木。新共同訳では「裸の木」、共同訳2018では「荒れ地のねずの木」。ねずの木とは何か。ちょっと分からないのですが、ネズミサシとすると、低木で針葉、ひとを寄せ付けない、という感じでしょうか。ちなみに、グリム童話の「ねずの木の話」は、恐ろしい話のようです。

 「幸せが訪れても出会うことはなく」。幸せがやってこないので出会わないのではなく、幸せはやってくるのです。しかしそれに出会うことがない。そこに幸せがやってきているのに、それを幸せと気づくことがない。「焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む」。心が神さまから離れてしまうとき、泉を失った木のようになってしまう。また大切な隣人たちも離れて行ってしまう。

 一方、

「主に信頼する者に祝福があるように。
 その人は主を頼みとする。
 その人は、水のほとりに植えられた木。
 流れのほとりに根を伸ばし、
 暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、
 日照りの年にも心配なく、
 実を結ぶことをやめない。」(7,8)

 主に信頼する者は、主を頼みとします。当たり前の文章が続いているようですが、新共同訳では「主がその人のよろどころとなられる」、共同訳2018も同じです。新改訳は主語が「その人」ですが、こちらは「主」が主語となっています。主に信頼する人は、主ご自身がその人のよりどころ、頼りとなられる。
 神さまとの間の信頼関係は、強制的な力によって築き上げられるものではありません。私たちの神さまは、私たちからの信頼を待ち望んでいてくださいます。ひとたび神さまをお頼りするならば、神さまご自身が、よりどころ、頼りの基となってくださるのです。
 「その人は、水のほとりに植えられた木」。手を伸ばせばすぐそこに泉があります。「流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない」。常に水分に満たされ、それによって葉が生い茂る。光合成によって造られ、それが蓄えられていく。たとえ日照りが続いても心配がない、憂いがない。そうして実を結ぶことをやめない。絶えず実を結ぶ。
 祝福された人生とは、絶えず実を結ぶ人生のことです。日照りがないわけではない。干ばつが訪れることもある。しかし神さまにしっかりとつながっているならば、その尽きることのない水脈から、水分が補給されているので、実を結ぶことをやめないのです。

 今日も猛暑の一日のようです。教会に植えられたブルーベリーがたくさん実を結んでいます。まだ色づいていませんが、鳥から守られるように妻は網を張りました。本部に植えられたブルーベリーはまだのようですが、植えられたキュウリのほうは実を結んでいます。こちらは、あっというまに大きくなります。いのちあるものは、水分補給さえしっかりすれば、おのずと実を結んでいます。人間も、神さまにしっかりとつながっているならば、どのような実であるか、自分が望んだ実であるかどうかは分かりませんが、確かに主にある良い実が結ばれるのです。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」(ガラテヤ5・22,23)

【エレミヤ17・5~8】
5 主はこう言われる。
 「人間に信頼する者はのろわれよ。
 肉なる者を自分の腕とし、
 心が主から離れている者は。
6 そのような者は荒れ地の灌木。
 幸せが訪れても出会うことはなく、
 焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
7 主に信頼する者に祝福があるように。
 その人は主を頼みとする。
8 その人は、水のほとりに植えられた木。
 流れのほとりに根を伸ばし、
 暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、
 日照りの年にも心配なく、
 実を結ぶことをやめない。


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