主に向かって歌い、主をほめたたえよ

静まりの時 エレミヤ20・7~13
日付:2024年05月16日(木)

「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。
 主が貧しい者のいのちを、
 悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」(13)

 エレミヤは預言者ですから、神さまから託された言葉を語るのがその使命です。
 エレミヤは神さまから、大声で「暴虐だ、暴虐だ」と叫ぶようにと言われました。これは、人びとに受け入れられることではありませんでした。人びとはむしろエレミヤに反感を持ち、エレミヤを嘲り、一日中笑い者としました。

 み言葉を語ることで、つらい思いをするならば、そんなことはやめてしまえばよいのですが、エレミヤはやめません。

「私が、『主のことばは宣べ伝えない。
 もう御名によっては語らない』と思っても、
 主のことばは私の心のうちで、
 骨の中に閉じ込められて、
 燃えさかる火のようになり、
 私は内にしまっておくのに耐えられません。」(9)

 つらい思いをすることになるにも関わらず、神さまの言葉を語り続けるのは、そうせざるを得なかったからです。主の言葉自体が、自らのうちにあって、燃えさかる火のようになり、しまっておくことに耐えられなくなったからです。語らずにはおれなくなったのです。

 つらい思いをすることになるにも関わらず、神さまの言葉を語り続けるエレミヤ。そのことをエレミヤは、神さまに「惑わされました」(7)、エレミヤを「つかみ、思いのままにされました」(7)と語りました。エレミヤは、神さまにつかまれ、その御手の中で、神さまの思いのままにされたのです。
 この神さまに惑わされるという表現には、少し違和感がありますが、自分の思いのままに生きるのではなく、神さまの御思いの中に生きることは、そのような表現でしか現すことのできないことなのかもしれません。エレミヤは、ただ神さまの御手の中にあって、神さまの自由の中にゆだねたのだと思います。
 そのような中にあって、エレミヤはなお信仰を確かにし神さまを賛美しました。

「しかし、主は私とともにいて、
 荒々しい勇士のようです。
 ですから、私を迫害する者たちはつまずき、
 勝つことができません。」(11)
「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。
 主が貧しい者のいのちを、
 悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」(13)

 エレミヤは自らのいのちを「貧しい者のいのち」と語りました。
 「貧しい者のいのち」だけれども、神さまは救い出してくださった、と読めると思いますが、それと同時に「貧しい者のいのち」だからこそ、神さまは救い出してくださった、とも読めるのではないか。貧しいということは、否定的なことではなく、むしろ積極的なことなのではないか。
 神さまが主権をおとりになって、みこころのままにことを為してくださるためには、用いられるべき人間は、神さまの御手の中にあって、ひたすらしなやかで従順でなければなりません。いわゆる富んでいるならば、そこで神さまを越えて自己主張をしてしまうことになる。しかし貧しいならば、ただ神さまの御手の中で安んじる道を選択することができるのだと思います。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5・3)


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