静まりの時 2021年9月25日(土)
人生における幸福の多くは、小さなことが首尾よく進んでいるかどうかにかかっています。もし神が大きな出来事だけを命じ、小さなことはただ運に任せるだけだとすれば、私たちは非常に不幸な者となるでしょう。
・・・
神に対して示している私たちの愛を、私たちの周囲にある小さなことにも注ごうではありませんか。さらに本質的なことに関しては、もっと真剣になろうではありませんか。重要でないことにも無関心にならないようにしましょう。なぜなら神の愛は非常に小さな細かいことにまで及んでいるからです。私たちは小さなことにも忠実であるべきです。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、378頁ff
和歌山県の南の方で自殺予防の働きをしている教会の関係で「小さな幸せ」という歌をむかしに合唱したことがありましたが、小さな幸せを大切にすることこそ、人生を豊かに、また確かに生きる道であるということでしょう。神さまの愛は大きなことにも注がれていますが、小さなことにも、生活の節々に至るまでも注がれているのです。
さて本日の聖句(下記)ですが、一体パウロは何を言おうとしているのでしょうか。キリストが十字架につけれられたのはその弱さのゆえであったが、今は神さまのお力によって生きておられる、それと同じように、私たちもキリストに結ばれた者として弱い者であるが、しかしあなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きている、とはどういう意味なのでしょうか。
聖書は、常に文脈で読まないとわからないですね。ここも前後を読む必要があるでしょう。
パウロが手紙を書く必要に迫られたのは、教会に問題が起こっていたからです。教会にお問題が起こる、それを解決するために、聖書の手紙類は書かれたということです。
ではここでコリントの教会の問題とは何であったのか。前の文章を見てみましょう。
「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。」(1~3節)
コリントの信徒たちの中には罪を犯し続けている人たちがいたということでしょう。そしてそれについて指摘して悔い改めるように勧告したパウロに対して、そのパウロの言葉を、キリストからの言葉でない、と軽く扱おう、あるいは無視しようとしたということでしょう。キリスト者でない人たちではありません。ある時にキリストを告白し、洗礼の恵みに与ったキリスト者たちの姿です。どんなにパウロは心痛めたことであろうか、と思います。
さて問題は、そのような状況の中でパウロは「今度行ったときには容赦しない」と言っていることです。なんとも恐ろしい言葉です。そしてそれに続いて語られたのが、今日の聖句となりますから、この「あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです」という言葉は、コリントの教会に対して語るパウロの「権威」を確かにしようとしていると読めるのではないかと思いますが、それは決してパウロが高圧的になり力づくで指導しようとしているのではないと思います。パウロにはこう語ることによって分かってほしいという願いがあったのではないでしょうか。
この言葉を聞いたコリント人たちに分かってほしかったこと。それは「権威」というものを自分の中ではなく、自分の外に置くということではないかと思います。ものの真偽を測るのに、私たちは自分の「物差し」が正しいとして測ります。それは自分の「物差し」に権威を置いているからでしょう。しかしその「物差し」が正しいとは限りません。それが主イエスさまに出会ったことによって知らされた真実です。正しいお方は主イエスさまだけです。ですから常に自分の中で確信したことについても、絶対視しない、相対的に見る、ということを大切にする、それがキリスト者の在り方なのだと思います。
「キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(3後半~4)。
キリストとともに生きているということは、つねに私にとってキリストは強いお方、大いなるお方、主であるということを確かにする、ということなのだと思います。
私はこれは本当に福音だなと思います。そもそも自分のことさえしっかりとすることができないのが私たちの実態です。それなのに、そんな自分の中に絶対的な権威を置いてしまっては平安に生きられるはずがありません。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え・・・」(ピリピ2・3)というのですから、自分が絶対的に確かにそうだ、と思ったことについて常に客観的な視点をもって相対的に考えること。周りの人たちの意見に耳を傾け、悔い改めるべきことが示されたならば、主イエスさまの前に悔い改めつつ、生きていくこと。そんな素敵な生き方が私たちには約束されているのです。それが「義認」に生きるということ、すなわち救われて生きるということです。
良い天気が続きます。夕刻のウォーキングが日課になると、そこで行き交う人びとの顔が、目になじんできます。小さな会釈をする人も生まれます。あるところでは私たちの顔を見ては決まって吠える犬がいます。時間がずれるとその犬が散歩に連れて行ってもらう姿もみられます。吠えるだけの姿とは違う姿を発見します。人生は豊かなものだなと感じます。
今日は備えの日。明日の主の日にむかいます。幾人かの方が礼拝準備に来会されます。感謝です。
「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(2コリント13・4)
*さっき読み返していてちょっと誤解を与える言葉が多かったかなと思い少し推敲しました。出来損ないの牧師ですみません。同労者への励ましを願い思いついたままを書いていますので、適当に読んでください。お願いします。