深い慙愧と、強い信念と

「私たちは、自分がどんなに醜い、卑しい、けちな人間にすぎないかを知っています。・・・しかし、同時に私たちは神に赦されている、救われているという喜びを感じています。信仰者は、時に人びとの想像を越えて、しぶとく、強く、勇気に満ちていることがあるのです。・・・深い慙愧と、強い信念と。反対の極にあると思われるこの二つのものが、信仰者の中に同居しているのです」。北海道家庭学校の前校長 谷昌恒先生の言葉である。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、304頁

2020年10月13日(火)

深い慙愧と強い信念。反対の極にあると思われる二つのものが同居している。それが信仰者である、といいます。深い慙愧は強い信念を希薄にしない。また強い信念が深い慙愧を消すことがない。これがキリスト者である、というのです。強い信念が深い慙愧を無くし、深い慙愧が強い信念を生まないようにしているのは、キリスト者ではないというのです。

「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(第二コリント6・9,10)