〔わが魂はあなたを慕いあえぐ〕
2014年5月16日(金)
「わが魂はかわいているように神を慕い、生ける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。」(詩篇42:2)
「神のみ顔を見る」ということは、すべての生の目標であり、われわれが永遠の生命を持つようになるということである。われわれはこの神の顔を、十字架につけられたイエス・キリストにおいて見る。われわれは、この十字架の上に神の顔を見いだすからこそ、この顔を永遠に、完全に見ることを、かわいたように慕い求めるのである。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、244頁f。
喉の渇き、肉体の渇きを経験しますが、それ以上に魂の渇きに気づいているでしょうか。生きていると喉の渇き、肉体の渇きを覚えるように、魂も生きていると渇きを覚えています。それに気づかないで生き続けるならばいつか必ず生きられないくなります。少なくとも生きづらくなります。肉体の渇きがいやされるように、魂の渇きもいやされないと生きていくことができません。
魂の渇きをいやして下さるのは、神さまだけです。喉がかわいたときに、甘いジュースは一見喉を潤すようですが、より深い渇きを肉体に呼び起します。神さま以外のものはこの甘いジュースのようなもので、渇きをいやそうと神さま以外のものを求めることは、渇きを潤すことになりません。依存心を増長するだけです。神さま以外のもので最大のものは人間です。そしてそれこそ偶像なのです。
私たちの渇きを真にいやしてくださる神さまは、十字架につかれたイエス・キリストです。十字架につけられたイエスさまご自身において、私たちはほんとうの神さまの顔を見ます。そしてそこでこそ真にいやされるのです。
私の罪のために十字架につかれたまことの神であり、まことの人となってくださったイエスさまご自身において神さまの顔を見ます。それは神さまの赦しと愛、慈しみにお出会いすることです。十字架のイエスさまにお出会いして魂の渇きを癒していただく者は、依存心が助長されるのではなく神さまの前にある一個の人間として、責任ある人生をこの社会において歩みだす者となります。
(祈り)神さま、あなたの十字架において、まことの神さまのみ変えを見ることができますことを感謝します。きょうもあなたの御顔を仰がせてください。
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