月別アーカイブ: 2017年8月

めぐみのパンくず

[新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるのです。」       マルコ 2:22

◎断食の話から入ります。ヨハネの弟子もパリサイ人も良く断食しました。特にパリサイ人は週に二回(月・木)断食しました。いかにも断食していますと言う姿でパリサイ人は顔に白い粉を塗ったり、汚れた服を着て人々に表しました。イエスさまはそのような断食はするなと弟子たちに命じておられます。マタイ6:16~18。ましてや花婿(イエスさま)と一緒の時には、断食などしません。しかし、イエスさまが取り去られる時には断食するであろうと予告されました。

◎イエスさまと一緒にいることを二つのことで表されています。古い着物に、新しい布切れでつぎを当てると着物は破けてしまうこと。もう一つは新しいぶどう酒は新しい皮袋でないと、発酵するので柔軟性のない古い皮袋は破けてしまうと言われました。新しい布切れも、新しい皮袋も、信仰者の新しい生活を表しているのです。

◎古い布切れ、古い皮袋(体質)はそれぞれ新しいものと共存できません。キリスト者生活も、新しい生活態度(信仰生活)を保たなければ、破綻してしまうのです。

◎皮袋で考えて見ましょう。新生したキリスト者は新しい皮袋を持っています。礼拝すること、聖書を読むこと、祈ることを、ここにキリスト者に新しいぶどう酒(よろこびのぶどう酒)が満ちるのです。キリスト者の生活が新しい皮袋でありますように。信仰によって「見よすべてが新しくなった」Ⅱコリ5:17と宣言されたのですから、信仰生活のよろこびを満喫させていただきたいものです。

めぐみのパンくず

『医者を必要とするのは丈夫なものでなく、病人です。わたしは正しい人を招くためでなく、罪びとを招くために来たのです。』”マルコ2:17

◎アルパヨの子レビとは、マタイのことです。彼は取税人でした。イエスさまの招きにすぐに応じたレビは、自分の家にイエス様一行と取税人や罪人を招待します。自分の材を投げ出して大パーティを開いたのです。何のための?それは自身の旗印を明確に示すためでした。取税人と言う過去と決別し、以後はイエスさまの弟子として従っていくと言う。この明確さは、キリスト者にとってとても大切な事です。

◎いつものごとく、パリサイ人、律法学者は弟子たちはでたちに難癖をつけます。お前たちの師はどうしてこんなことをするのかと。

◎このことを聞かれた、イエスさまの答えが主題のみことばです。取税人、罪びとは自分たちの状態をよく理解できました。「病人」であることと、「罪人」であることです。「病気」肉体的なこと以上に、心の病と知っていたのです。知っていただけでなく、確かにいやして下さるお方が誰かを。

◎「罪人」においても同じです。殺すな、盗むな、姦淫するな、偽るなの対人関係の問題だけでなく、その思いにおいて、深層から罪びとであることを気づいたゆえに、彼らは、イエスさまを中心としたパーティに参加したのです。自分は正しい生活を送っていると自負している者はこの輪には入れないでしょう。

◎イエスさまは、心と体の癒し主、罪を解決して下さるただお一人のお方です。

めぐみのパンくず

中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』というのと、どちらがやさしいか。” マルコ2:9

中風は半身の不随や、腕や脚のマヒする病気です。 一般的には、脳出血後に残る病気と言われます。つらいことだと思いますが、この人には良き友たちがありました。何と4人も!

◎友たちは、イエスさまなら癒していただけるだろうと確信していました。戸板に乗せてやってきたのです。しかしイエスさまがおられた家はいっぱいの人で入れません。機転の利く4人は屋上に上りその屋根を引きはがして、病人をつり下ろしたのです。

◎イエスさまは、「彼らの信仰を見て」中風の人に『子よ、あなたの罪は赦されました』と宣言されます。イスラエルでは病気は罪の結果であると考えられていました。この人も病気の原因を思う時、罪を悔いていたと考えられます。イエスさまの業は内面から始まります。

◎ところが、見ていた律法学者たちにとっては「罪をゆるすことが出来るのは神だけ」と心の中で理屈をこね「神を汚している」とイエスさまを非難します。これを見抜かれたイエスさまは『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために』と寝床を取り上げ元気に歩き回れるようになさいます。

◎二つの幸いを見ます。イエスさまは心と体の癒し主、この人はそれを体験しました。また、良き信仰の友を持っていたということです。『世には友らしい見せかけの友がある。しかし兄弟よりもたのもしい友もある。』箴言18:24(口語)