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めぐみのパンくず

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」”

                マルコ1:17

◎12弟子最初の4人の召しです。彼らはガリラヤ湖の漁師でした。シモンとシモンの兄弟アンデレ。ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネです。

◎二組の兄弟たちに目をとめてみますと、漁の真っ最中に「私について来なさい、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたシモンとアンデレ。船の中で網を繕っていたヤコブとヨハネ、対照的な姿ですが、どちらも主の目に留まったのです。

◎イエスさまの目は、力を尽くして働いている者、また準備を怠らない者に注がれています。良い準備働き働きのもとです。見えるところと見えないところのバランスが取れている人々です。

◎次に彼らの応答を見てみますと、シモンとアンデレは「すぐに」網を捨ておいてしたがい、ヤコブとヨハネは父と雇人たちを船に残して、イエスに従ったのです。決断のすばらしさを見ます。取税人マタイもそうでした。逆に主の招きに応じられず、この世のことに後ろ髪を引かれて決断できない人もあるかと思えば、人間的な思いで、イエスさまについて行きたいと言って、弟子の厳しさをイエスさまに示される人もいます。その中でこの四人は御目にかない、彼らも「人間をとる漁師に」心からさせていただきたいと願った人たちでした。

◎現在も主は呼びかけて招こうとされている兄弟姉妹がいることを思います。お声がかかったら「すぐに」従う。大きな恵みです。

めぐみのパンくず

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」”    マルコ1:16

◎イエスさまの出番です。そのイエスさまが上のみことばを告げられる前に通られたことがありました。

◎第一はバプテスマのヨハネから洗礼を受けることでした。ヨハネは洗礼を授けることを躊躇しましたが、「今はそうさせてもらいたい」マタイ3:15と言って受けられたのです。イエスさまのバプテスマは罪人の洗礼とは内容は全く違う者でした。なぜなら、その後で、聖霊が鳩のように下り、天からの父なる神さまの声が聞こえました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」11と。イエスさまの伝道への就任式、出発式のための洗礼式と言われます。

◎第二は、すぐに伝道の声を上げず、荒野(そこには獣もいました)に行き、40日間断食をされました。父なる神さま以外一切の関係を断ち祈るために。祈りの勝利はすぐに現れます。この世の支配者、サタンの試みがやってきますが勝利されます。マタイの福音書に三つの誘惑が記されています。①食物への誘惑②力の誇示③世の支配者に頭を下げる。の三つでした。人間が陥りやすい誘惑に救い主の勝利を見ます。その秘訣はみ言葉でした、モーセがカナン突入の前に(一度は失敗したイスラエルの民に)「再び言う」と語った申命記、そこから三度引用されて、サタンを撃退なさったのです。み言葉を正しく読み力とするキリスト者でありたいと思います。自分勝手な使い方をするサタンの手に陥らないために。

めぐみのパンくず

バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを

説いた。”      マルコ1章4節

◎マルコはペテロ従者と言われる人で、ペテロからイエスさまのことをくまなく聞き取り書き連ねました。共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の最初の福音書です。

◎冒頭に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」とありますがマルコ伝の出発と言うことではなく、イエス・キリストの生涯すべてが福音であると言うことです。

◎真打登場の前に露払いのごとくバプテスマのヨハネの登場が記されています。ヨハネは荒野に住み、非常に質素な生活をしていました。預言者として選ばれた人の生活です。子のヨハネのもとに大勢の人々が全国からやって来ました。そしてヨルダン川かでヨハネから洗礼を受けました。

◎ヨハネは言います。「私よりもさらに力ある方が来られる~」と、ヨハネは水(洗う)でバプテスマを授けたが、「その方は聖霊のバプテスマ」を授けられると言うのです。

◎キリスト者は一度だけ洗礼を受けますが、心の準備においてまず、バプテスマのヨハネの洗礼を受けるのです。即ち罪の告白です。(ルカ3:7~13)このところを通ってこそ、イエスさまが授けて下さる聖霊によるバプテスマが与えられるのです。キリスト者の信仰告白は信じたらよい(そうなのですが)正しい順序を通ってこそ、神の子とされた信仰生活が始まるのです。

めぐみのパンくず

“だから、彼らのまねをしてはいけません。だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。』”マタイ6章8〜9節

◎イエス様は、弟子達に「だからこう祈りなさい」と、私達が毎週捧げている「主の祈り」と教えられました。当時、弟子達が知っていた祈りは、律法学者、パリサイ人、祭司達の人の目を気にした、偽善の祈りだったからです。今日はこの祈りの最初の一文「天にまします我らの父よ」から教えられましよう。3つの語から学びます。

① 「天」とは、地上ではなく、やがて私達が迎えられる永遠の家で、神様がおられ、支配しておられる所です。(第2コリント5章1節)

② 「我ら」というのは、複数形であって、神様は私だけの神様でなく、皆んなの神様であられること、だから祈りには、教会、隣人、家族、友人、そして自分の敵さえ含まれることを教えられています。祈りは自己中心であってはならないのです。

③ 「父」神様のことを「父」と呼べるのは、イエス様だけです。私達は神様の創造によって造られましたが、神様の子供となるのは、新しく生まれなければなりません(ヨハネ3章3節)。ですから、この「主の祈り」は神様の子供とされた者だけが捧げることの出来る祈りです。神様と親しく尊敬をもって「お父さん」と呼べることは、驚くべき恵みです。子供の祈りを神様は耳を傾けて聞いて下さいます。                            ロン・ケイスリー師