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めぐみのパンくず

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるとしてくださいますように。主イエスキリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。”        Ⅰテサロニケ5:22

◎イエスさま来臨待望の手紙の結びのみことばで

す。やがてイエスさまにお出会いするときの一つの条件、それは「聖なるもの」とされていなければならないと言うことです。しかし、自分で聖くなれとは命令されていません。全能の神ご自身が、平和の神となって、キリスト者を聖くして下さるというのです。

◎それは、キリスト者の全人格に及ぶ聖さです。霊、たましい、からだにまで及ぶ聖さです。人間がこの三つのもので形成されていることを本当に知っているのがキリスト者です。まさに天国人にふさわしい人間の姿です。欠点のない、咎められるところが一つもないほどに神さまが整えて下さることを信じて待ち望みましょう。

◎怒りの神ではなく、平和の神としてキリスト者を迎えて下さる神は、同事に「真実なお方です」Vs24。原語の「ピストス」は人間に使うときは「信仰」と訳され、神さまに使われる時は「真実」と訳されます。人間同士でも信じあうことの最も大切なことは、真実であるのですから、ましてや聖書の神さまの真実は変わりません。使徒パウロは、この神さまが「きっとそれをしてくださいます」と念を押しました。

◎御国の到来は、御国そのもののすばらしさに加えて、キリスト者一人一人が変えられた者としてのすばらしさに感動することでしょう。

めぐみのパンくず

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。”   Ⅰテサロニケ5:16、17

◎Ⅰテサロニケ5:12~22には主の再臨の待ち望み二つのことが記されています。一つは教会での交わり(対人)について。二つは自らの信仰です。

◎教会の交わりにおいて。教会のリーダー(牧師や長老)たちに対して、承認し、感謝し、尊敬して認めよとパウロは勧めます。また、働きにおいては高い評価をもしなさいと言うのです。指導する者は、そのような立場にあるのですから心しなければなりません。

◎また兄弟姉妹たち同志では、詳訳聖書のみことばを見てみますと。「怠け者、だらしないもの、わがままな者を戒め、臆病な気の弱い人たちを励まし、弱い魂を助け、誰に対しても忍耐強くありなさいと。そして仕返しするな、親切を表せ」とあります。

◎二つ目の自らの信仰の大切さとは。上のみことばです。信仰者の真骨頂ですね。誰もが納得することでしょう。どのような時にも「常時喜悦、不断祈祷、万事感謝」と言い続けた聖徒がいましたが、このことから外れることの多い時にこそ、思い出さなければならないみ言葉です。続けて「御霊を消すな」「予言をないがしろにするな」と使徒パウロは命令します。聖霊の助け、みことばの励ましがあってこそできることでしょう。また、聖霊とみ言葉は良いものと、悪しきものを分別させて下さるですから、聖霊を、み言葉を宝として主の再臨を待ち望みたいものです。

めぐみのパンくず

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。”

Ⅰコリント15:3

◎最も大切な事(グレイテスト・インポータント)として使徒パウロは四つのことを記します。キリストは「私たちの罪のために(私の)死んだこと。葬られたこと。三日目によみがえったこと。弟子たちをはじめ多くの人たちに現れたことです。もしキリストの復活がなかったら、伝えているキリスト者は、「大嘘つきであり、神に逆らう者となる」Vs15のです。

◎この復活の章と言われるところから二つのことを見てみたいと思います。

第一は、復活こそは信仰の土台と言うことです。イエス・キリストが復活されたからこそ、十字架の救いが実証的になりました。復活なしでは罪が赦されたことにはならず、キリストが死んだままなら、罪に死んだままで終わるからです。キリストの復活こそが罪びとの赦しの保証なのです。だから、赦された者は同じように復活の命に与れるのです。

◎第二は、復活こそ神の恵みです。この神の恵みが届かない人は一人もいないのです。使徒パウロは自分の過去を告白します。「使徒の中で使徒と呼ばれる価値のないもの」なぜなら、彼はキリスト教会の大迫害者だったからです。自分の過去を正直に見つめることのできる人、見つめるだけでなく告白できる人、しかし最もうるわしいことは「罪びとの頭」Ⅰテモテ1:15と心底自分と思える人です。しかし、それで終わりません。その私が「今の私になりました」と証しできる人です。イエスさまの復活は落ちていくばかりの罪びとを天上にまで引き上げる力があるのです。復活をこころから感謝する信仰生活となりますように。

めぐみのパンくず

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。”

            Ⅰテサロニケ 5:6

◎イエスさまは再び来られる。そのことに緊迫感をもって待ち望んだテサロニケの教会員でした。そこで使徒パウロはいかに待ち望むかを様々な励ましで述べていますが、今日のところでパウロは「昼の者なので」と言い、その積極的面と消極面とを語ります。

◎まず消極面から見てみましょう。「慎み深く」あれと、5節でも「目をさまして、慎み深く」と言っています。慎み深くとは、興味深いことに、「酔っていない、しらふでない、酒を飲まない」という意味の言葉が使われているのです。テサロニケの教会員が皆、酒好きだったのでしょうか。そうではなく、酔うと意識や感覚が乱れます。信仰が乱されないよう、謹んでいようと。それはまじめな信仰生活、謹厳、冷静な信仰生活です。

◎積極面を見てみましょう。胸当てとかぶとが出てきます。胸当て、エペソの手紙では「正義の胸当て」とあります。ここでは信仰と愛の胸当てです。神さまに愛されていることを、露ほども疑うことのない信仰者であれと言うのです。愛されているのだから積極的に信仰に前進して行こうと言わんばかりです

◎救いの望みのかぶと。サタンは救いの確信を射ようと思いを乱そうとします。飛んでくる矢のように突き刺さると疑いが起こります。しかし、イエスさまはキリスト者を確かに贖って下さったのです。「サタンよさがれ」と命令できる頭をもつ守りのかぶとなのです。