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めぐみのパンくず

また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。”

         テサロニケⅠ 3:13

◎使徒パウロはテサロニケの教会員に再会への思いでいっぱいでした。11節では「主が道を開いて行かせてくださいますように」と願っていますが「道を開いて」とは原語において「まっすぐに行けますように」と言う言葉が使われています。目的地に早く着きたい思いがあふれています。困難が立ちふさがっていたのでしょう。

◎続く12節では「愛にあふれて」いるように願っています。それは教会の信者相互間だけにとどまらず、全ての人に届くところの愛であって欲しいと願いです。見本は「私たちがあなたがたを愛しているように」と言います。パウロに愛を示されたテサロニケの教会員の幸いを思います。

◎そして13節のみことばに入ります。そのままみ言葉を受け取って、聖いキリスト者であることを祈り願うことの大切さを思いますが、再臨の時キリスト者を神は責め立てられるのだろうかと考えます。主の十字架で赦されたキリスト者、御子の血で贖われた者を?読むうちに示されたことの一つに、神の前に立たされた者は、自らが自らの信仰生活を、責めるのではないかと言うことです。そのようなことがないように使徒パウロは「心を強め」よと言うのです。この言葉は「固定させる」「支える」の意味があります。イエスさまがいつ来られても良いように信仰の心を強めていたいものです。

めぐみのパンくず

私たちの神の御前にあって、あなたがのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。”

              テサロニケⅠ3:9

◎使徒パウロがテテサロニケの教会員に手紙を書いた時、アテネにおいて、コリントにおいて激しい信仰の戦いの最中でした。その中で、愛するテサロニケの教会員のことが心配になったのです。二つの理由があったように思います。一つは自分が戦っている信仰の苦難が愛する者達にも及んでいないであろうか、ということであり、その戦いの背後には「誘惑者」「試みるもの・口語訳」の存在を強くおぼえていたからでしょう。「苦難」という言葉がくり返し枯れています。

◎そこで、いてもたってもいられず、信仰の兄弟であり、同労者であるテモテを遣わしました。テモテの報告はテサロニケの教会員の「信仰」が揺るがされていなかったことでした。パウロはテサロニケ教会員の信仰を知りたかったのですが、その報告は「良い知らせ」となりました。彼らは離れていても、パウロたちのことを親切に思い、しきりに会いたいと願っていたvs7というのです。どんなに嬉しかったことでしょう。そこでパウロは神さまに感謝をささげました。

◎しかし、安心と喜びにとどまらず、やっぱり顔と顔とを合わせて福音の交わりをしたいと願う気持ちは変わりません。顔と顔を会いまみえて、手と手を取って喜びたい~それもあったでしょう。しかし、それ以上に「信仰の不足を補いたい」という願いがパウロにはあったのです。信仰は常に成長し続けなければならないからです。

めぐみのパンくず

私たちの主イエスキリストが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは誰でしょう。あなたがたではありませんか。”

               Ⅰテサロニケ1:19

◎Ⅰテサロニケ人への手紙の特徴は各章の終わりに「主の来臨」が示されていることです。使徒パウロの終末観とそれにかかわる宣教観が伴われて。イエス様が来臨なされる時、テサロニケの教会員がパウロにとってどれほどの存在であったかを表すみ言葉が上のみことばです。

◎「望み・喜び、誇りの冠」である、あなたがたこそその人々だというのです。人が救いに導かれるのは三位一体なるお方の働きです。しかし、あたかも自分が救いに与らせたごとくに喜びを溢れさせて下さるのです。キリスト者は誰かによって導かれました。神さまは人を用いられます。それはこの世では得られぬ喜びです。

◎このような関係はどんなに距離的に身体は離れていても心は一つなのです。導いた人、導かれた人の関係はこの世で終わるものではありません。使徒パウロは「しばらくの間」離されたと言いました。言語では「一時間ほど」という言葉が使われています。世の人にとっては引き離されることは、特に死によって引き裂かれる場合は、大きな悲しみです。キリスト者の別れはいつの時も「しばらくの間」離れている存在なのです。現在は祈りにおいて。永遠の命の世界においては顔と顔を合わせて

◎サタンはこの関係を切りたい、離れさせたいと働きます。しかし、み言葉を信じ喜ぶとき決して負けるものではありません。

めぐみのパンくず

こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間の言葉としてではなく、事実どおりに神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。”        テサロニケⅠ2:13

◎使徒パウロがテサロニケの信者に感謝したみ言葉です。「絶えず」とありますから思うたびごとにということでしょう。まず、福音を人の言葉ではなく神の言葉として素直に受け入れたことでした。みことばを読むとき、説教が語られる時、確かに神さまの言葉だと受け入れられる人は感謝な存在です。確かに受け入れた人に、み言葉は働きます。人は言葉によって考え動きます。神のみことばの動力に支配されるのです。

◎この後の展開を見ていきますと、神のみことばを受け入れたテサロニケの信者は、パウロたちがユダヤ人から受けた迫害のように、テサロニケ人からも受けることになりました。信仰を持つことは、人生バラ色ではなく、迫害もあったのです。

◎使徒パウロはテサロニケの信者が迫害を受けたから喜んだのではないと思います。その迫害の時にもキリスト者としての態度、習慣を変えなかったからなのです。信仰はいろいろなことで試されます。精錬される金のように。その中で人からの攻撃はよりつらいものだと思います。しかし動かされることがなかったのです。

◎最後に、イエス様も預言者たちもユダヤ人から迫害を受け命をも落とされたことを忘れてはいけないと思います。