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めぐみのパンくず

見よ。まことにわたしは新しい天と地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。”

            イザヤ書65:17

◎神の用意して下さる新天新地が主題です。その内容を見てみたいと思います。第一に神の国では過去のことが一切返り見られないということです。天国へ行ってからも地上での出来事が思い出されるならば、そこは天国にはなりません。ルカ16章のアブラハムのふところに抱かれたラザロのように、地上での苦難が取り去られて安んじている姿です。反対にゲヘナに落とされた者は、地上での出来事、特に悔いるようなことを忘れることができないのです。

◎「泣き声も叫び声も聞かれない」vs19かわりに喜び楽しみがあふれているのです。神のエルサレムでは神自らが「たのしみとする」と言って下さるのです。これこそが新天新地の民の姿でしょう。

◎VS20節からは、まず人間の寿命にふれています、「数日しか生きない乳飲み子も寿命の満ちない老人もない」とは永遠の命の表現です。死産はもちろんありません。家はイエスさまが約束して下さった天のマンションでありヨハネ14、食物も奪われることがないことが約束されています。決して無駄にならない労働までが記されています。(宇宙的労働)この地上で描かれる理想郷をはるかに勝っています。

◎キリスト者はイザヤの記した新天新地を土台としてヨハネの黙示録の新天新地をも知っています。涙の原因となる、死も、悲しみも、苦しみもないことを黙21:4。信仰者だけに与えられている特権の約束です。

めぐみのパンくず

エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙り込んではならない。”

                 イザヤ書62:6

◎この章には「黙っていない」「黙りこまない」「黙っていてはならない」「黙り込んではならない」vs1、6、7と同じような言葉が5回出てきます。これは、神の側においても、キリスト者においても語られている祈りについてなのです。

◎まず神はシオンのためエルサレムのために黙っていないと言われます。 vs1口語訳、文語訳には「休まざるべし」と続きます。聖書の神は休むことなく祈り続けて下さるのです。神が祈り続けると言うと不思議な気がしますが、三位一体の父なる神、御子なるイエスさま、聖霊なる神は、キリスト者のために祈り続けて下さっているのです。イエスさまは「キリストはいつも生きていて、彼らのために取りなしておられる」ヘブル7:25.また御霊は「言いようもない深いうめきによって私たちのためにとりなしてくださいます」ロマ8:35と。

◎キリスト者も祈るのです。神の国を、ご支配を待望して。見張り人とは牧師、伝道者に比べられますでしょうか。主に覚えられている者とは、全てのキリスト者です。「黙り込んではならない」祈りを忘れてしまってはならないというのです。

◎祈りの原点は、み言葉に触れるところから出てくると思います。み言葉に触れていなければ神に近くあることが意識できないからです。聖書を読み祈ることを怠ってはならいと思います。

めぐみのパンくず

主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。・・・そうして、西の方では、主のみ名が、日の上る方では、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。”

             イザヤ書59:17、19

◎イエスさまは人類の救いのために二度来られと聖書は記します。初臨は2000年前実現しました。「すべて人を救う神の恵みが現れた」テトス2:11と。キリスト者とされた者は、罪と死からの救い主としてこのお方を受け入れました。イエスさまは十字架と復活のわざを終え、再度来られることを約束して天に帰られました。

◎そのイエスさまがもう一度、来られるのをキリスト者は待ち望んでいますが、その待ち方も、時にはチェックが必要です。いつ再臨されても良いように準備をしていなくてはなりません。「私たちの国籍は天にあります」ピリピ3:20と。

◎イエスさまの初臨の時は、魂の救いが中心でした。人間に与えられた人生の中で、信じる余裕の時を神は与えておられました。

◎しかし、再臨の時は、まったなしです。「人間には、一度だけ死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」ヘブル9:27のです。一度だけ生まれた者は二度死ぬ。二度生まれた者は、一度だけしか死なない・・と言った人がいますが、キリスト者は人間として生まれ、神の子として生まれたゆえに、二度目の死である、永遠の死をまぬかれるのです。二度の来臨をこのゆえに信じ待ち望んでいるのです。