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めぐみのパンくず

あなたがたのうち、だれか主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め”  イザヤ書 50:10

◎イザヤ書には僕の詩が数か所記されています。神さまの僕。イエスさまのご生涯を思い見ることができると同時に、神さまに従う聖徒たちの姿をも示しているのです。

◎まず、イエスさまの僕としての姿を見ますと、朝毎に父なる神さまのお声を聞きvs4それも弟子のように聞いておられる姿を見ます。神のことばは疲れた者を励ますことのためでした。励ますだけで終わるのではありません。僕イエスさまは十字架の苦難をも忍耐なさることのできるお方として父なる神の御意志に聞き入り従いなさったのです。苦難の僕の姿が彷彿とします。Vs5,6

◎次に従う僕への神さまの助けを見ましょう。Vs7と9に「助ける」「助ける」と二度書かれています。「顔を火打ち石のようにし」とありますが、辱めにも耐える力を下さいます。それは背後に、神さまの義しい審判があることを信じるゆえなのです。信仰を与えられた聖徒たちに罪の裁きをなす者はありません。

◎最後に「僕は」同時に「弟子」であることを忘れてはいけません。良い弟子は、良い師匠から生まれます。良き師に恵まれた人ほど幸いな働きをすることができる人はいません。イエスさまは、神の僕となり、聖徒たちの「師」となって下さいました。 このお方を信頼するのは当然のこと、恐れおののいて自分の救いを達成するのです。ピリピ2:12

めぐみのパンくず

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。”  イザヤ書49:16

◎神の民イスラエルに対して愛の二つの表現がされているところです。一つは母親の愛に譬えて。もう一つが彫り物を通して。

◎神さまはイスラエルの名を手のひらに「あなたを刻んだ」と言われます。口語訳聖書では「わたしは掌(たなごころ)にあなたを彫り刻んだ」とあり、リビングバイブルでは「手のひらに刺青をした」とあります。神さまはその名が簡単には消えることのない方法をとられたのです。

◎刺青はいったん身体の部分に彫られますと、生涯消えないものです。消そうとした人がテレビで紹介されていましたが、大変な痛みに加えて、一度では消せず、何度も治療を受けねばならないとのことでした。

◎イスラエルの名が刻み込まれた手のひらには、キリスト者の一人一人の名も刻み込まれているのです。救いにあずからせ、御国の住人としていただくべきキリスト者の名が。イエスさまが一人一人の名を握りしめていてくださることをいつも覚えていることができますように。

◎キリスト者の名が記されたイエスさまの手のひら、それはまた、十字架に釘づけられた手のひらでした。罪から救われて、永遠に消されることがない、キリスト者の名が記されたのは、ひとえに十字架の功があったゆえであることを忘れず、心から感謝し、よろこぶことができますように。

めぐみのパンくず

あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたが白髪になってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。”

イザヤ書46:4

◎キリスト者の生涯は、創造主に負われて前進して行くものです。それは私たち自身が意識できること以上の範囲に及んでいるのです。

◎「生まれる前から選ばれた者よ」と言われます。使徒パウロの信仰体験を見てみましょう。彼が救い主と初めて出会ったのは、キリスト者を迫害していたダマスコ途上でした。強烈な光に照らされ、目が見えなくなる中「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とお声を聞き、回心します。これが最初の主との出会いと思っていましたが、信仰が進むにつれ、主との出会いはダマスコ途上ではなかった、「生まれた時から、私を選び分けてくださったのだと。しかし、信仰の晩年、獄屋の生活の中で「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」と告白するのです。キリスト者の選びが尋常でないことを思います。

◎その神さまが責任をもって「背負う」「背負う」そして「運ぼう」と約束してくださっているのです。つらく悲しい、打ちひしがれたような気持で、信仰生活の前進に赤信号がともなってさえも、大丈夫なのです。

◎ゴールは救いです。十字架による救いは天国の門に至るまで、主にあって一直線です。

めぐみのパンくず

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしは神である。ほかにはいない。”         イザヤ書45章22節

◎聖書の神は呼びかける神さまです。目があっても見えない、耳があっても聞こえない、口があっても語れない偶像とは違います。この神が「仰ぎ見て救われよ」と言われます。言われ続けているのです。

​◎神の創造された者の中で、人間だけが天を仰ぐことのできる存在ですね。特に悲しい時、寂しい時、美しく広大な天を仰いで心慰められた、ノン・クリスチャンの時代を思い出します。

◎​しかし、ここには仰ぐべき明瞭な呼びかけがあります。「救われよ」との。モーセがイスラエルの民たちを率いて荒野の生活をしたとき、食料はマナでした。これを「みじめな食物」と民は不平を言います。神は怒って「燃える蛇」を送られました。噛みつかれれば激痛と発熱を起こし苦しみます。その時、神はモーセに青銅で蛇を造らせ、「旗竿の上に掲げよ、それを仰ぎ見れば救われる」と言われました。十字架の予表です。自分を噛んだ蛇など見上げられるかと従わなかった者は死んだのです。しかし、苦しみの中で、見上げた者は救われたのでした。

◎この約束は、取り消されることがありません。「燻る燈心を消さず」と約束された神です。その神さまが唯一取り消さなければならなかったのが、人間の罪でした。大いなるジレンマを思いますが、神はご自分の御子の死によって、見上げる者の救いを決して取り消されないようにされたのです。