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めぐみのパンくず

志の堅固なものを、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからである。”        イザヤ書26:3

◎全き平安はヘブル語聖書では「シャローム、シャローム」と書かれています。シャロームとは心のうちに「安寧、平安」を、関係においては「平和」と訳されます。人間と人間との関係、人間と共同体の関係、人間と神と関係に現れる神様からの賜物です

◎このシャロームを「こころざしの堅固な者」に与えると約束されています「志操堅固」という言葉がありますが。信仰によって一つのことを忠実に守り通すことのできる人、絶対にその所から離れることのない人を表わしているでしょう。

◎もう少しシャロームの根源を新約聖書から見てみましょう。イエスさまは十字架に架かられる前、弟子たちに「わたしはあなた方に平安を残します。あなたがたに平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは世が与えるのとは違います。」ヨハネ14:27と約束されました。

◎この平安は十字架からくる平安です。ユダヤ人たちを恐れて部屋に閉じこもっていた弟子たちに現れ「「平安があるように。」こう言ってイエスはその手とわき腹を彼らに示された」ヨハネ20:20のです。主の十字架と復活を信じたものは、御国の約束を固く握る者とされるのです。「わたしの父の家には住まいがたくさんある。」ヨハネ14:2

◎最後に、十字架と復活の平安の確かさを持つものが外に向かって「いつまでも主に信頼せよ」イザヤ26:4と告げることができるのです。

めぐみのパンくず

わたしはまた、ダビデの家の鍵を彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。”      イザヤ書22:22

◎ダビデの家(王宮)は、天国の予表です。その扉の鍵を握ったお方をイザヤは700年前、預言しました。この方に開いていただかなければ誰も入ることができないのです。

◎その門は狭い(マタイ7:13,14)とも語られています。一人一人が入れていただくのです。

◎「開くと閉じる者はなく」とまず言われていますが、開いてくださったのはイエスさまで。いつ開かれたのでしょう。それはゴルゴダの丘で十字架に架かられた時でした。イエスさまが息を引き取られた時「神殿の幕が上から下まで真二つに避けた」マルコ15:38とあります。ご自分の死によって御国の門を開いてくださったのです。現在は開かれた時代です。

◎同時に閉じられる時が来るということも覚えておかなければなりません。黙示録3章には心開かれた教会とイエスさまが一生懸命心開かせようとしておられる教会が記されています。前者はフィラデルフィア教会で、イエス様のみ言葉を守り、その名を否まなかった教会です。それに対して後者は信仰生活が生ぬるくなった教会でした。しかし、イエスさまはその教会の戸口に立って、ノックしておられるのです。「あなたの心の扉を開いてわたしを入れておくれ」と。

◎天国の鍵はイエスさまが握っておられます。開け閉めはこの方にかかっています。それと共にキリスト者も心の扉を主にいつも開いていなければなりません。

めぐみのパンくず

あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。”イザヤ14:13、14

◎救い主イエスさまは、人間が勝利できない三つのものを滅ぼすために来てくださいました。罪と死と悪魔を滅ぼすために。

◎イザヤ書13章、14章はバビロン帝国の滅亡が記さていますが、バビロンをとおして、サタンのことが記されているのです。少し見てみましょう。

◎信仰をもち始めたころ、「サタンは本来天使だった」と教えられ驚いたことがありましたが、サタンはルシファー「明けの明星」で天使のリーダー格でした。彼が謀反を起こしたとき黙示録を見ますと(12章)天使の三分の一が彼に従ったことが記されています。

◎なぜ天使が堕落してサタンになったのか、上のみ言葉、英語の聖書を見ますと、I will が5度出てきます。「上ろう、王座を上げよう、座ろう、上ろう、なろう。」の。まさに、高慢でしょうか。要するにサタンは神さまのようになりたかったのです。

◎そして、「訴えるもの」ディアボロスとして、人間の罪を訴えます。しかし、イエスさまはその訴えを退けるために、罪(訴えられる原因)から救うために来てくださったのです。

◎光の天使に偽装Ⅱコリント11:14し、病をももたらしますⅡコリント12:7。そして今も全世界を惑わしているのです黙示録12:9。

◎最後にイエスさまを見上げましょう。ヘブル2:14「その死によって、悪魔と言う死の力を持つものを滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放するためでした。

めぐみのパンくず

あなたがたは、喜びながら 救いの泉から

水を汲む“ イザヤ書12:3

◎ヨハネの福音書4章で、サマリヤの女がヤコブの井戸の傍らでイエス様の救いにあずかった話はよく知られたところです。渇ききった魂にイエス様は「永遠のいのちのよろこび」としてご自分を泉にたとえられました。

◎それより700年前、預言者イザヤは救いの喜びを伝えています。(いうまでもなくイエス様の予表です)。12章からいくつか見てみましょう。

◎「怒りが去り、慰めが来た」と感謝の喜びです。Vs1使徒パロはエペソ人への手紙2章で人はみな「生まれながらの(神の)怒りの子であった」と言います。2章は救いに与る前のキリスト者の姿が記されています。そこから救われたのです。他に救いはありません。

◎「救いとなられた」Vs2と喜びの内容を語ります。恐れが去り信頼できるお方になった。私の力、私のほめ歌・・となりましたと。少し前の11:16ではエジプトからの救出が記されていますが、奴隷状態の(縛られていたもの)からの解放の喜びなのです。

◎第二の感謝Vs4,5~伝道につながっていくことが記されています。感謝の心は人々に伝えたくなると思います。

◎賛美の潤いです。Vs6喜びはおのずから賛美につながるでしょう。以前、台湾のリバイバルは賛美からはじまったと聞きました。「あなたの中に」Vs6のあなたは単数形で、内なるキリストの証です。心からの賛美は内なるお方と共に父なる神をほめたたえるのです。