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めぐみのパンくず

もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことが出来ない。”   イザヤ7章9節

◎北イスラエルとアラムの連合軍が南ユダに攻めて来ました。ユダは勝利したのですが、なおアラムの軍隊がイスラエル軍の地にとどまっていると聞いた時、アハブ王と民はその心が林の木々のように揺らぎ動揺しました。

◎預言者イザヤと息子のシュアル・ヤシャブは、籠城のため水の確保に行っていた王に会います。

◎そのメッセージは①気をつけて②静かにしていなさい③恐れてはなりません・・でした。出エジプト以来イスラエル人が危機的状況の中にある時、くり返し聞いた言葉です。この言葉を受けいれ、「あなたがたが信じなければ長く立つことはできない。」と意われます。そのために「しるしを求めよ」、確かな証拠を与えると主は言われす。

◎それに対し、アハズ王の答えは「求めません、主を試みません」でした。一見、信仰的に聞こえる言葉です。しかし、大切なしるしが神の民にはどうしても必要なのです。

◎不思議なことにこのような状況の中でイエスさまの「インマヌエル預言」が語られます。

一人の男の子が生まれ善悪を選び取るようになる頃、敵である連合国の王は死んでしまいます。アッシリヤによって滅ぼされるのです。

◎キリスト者が長く信じるために、終わりまで信仰を全うするために必要なしるし。それはインマヌエル「神われと共にいます」と言う信仰です。このしるしを内にもたずして、長く立つことはできないのです。

めぐみのパンくず

私は「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」    イザヤ 6:8

◎くちびるを燃える炭火で焼かれたイザヤは、きよいくちびる。(神さまのみこころのとおりに語るくちびる)に変えられました。そのイザヤに向かって神さまの呼びかけは「だれを遣わそう、だれがわれわれのために行くだろう。」なのです。

◎神さまが遣わされる民は、心素直に聞く民ではありません。「こころ鈍く、聞こえにくい耳、閉ざされた目を持つ民」なのです。イザヤの時代にはやがて起ころうとする、バビロン捕囚に向かってますます、神さまから離れて行く民の姿がありました。新約聖書でもイエスさまが「種まき」のたとえの中で引用し、「彼らは確かに見るには見るが悔い改めて赦されることがないため」(イザヤ6:1から引用)と語っておられます。福音は人々に簡単には受け入れられません。種まきのたとえのごとく、種まく者は信仰と忍耐が必要なのです。そのためにもみことばを語る者は、神さまのもの(器)とされなければなりませんでした。

◎イザヤが遣わされるところは、むつかしい民たちでした。しかし、みことばが語り続けられるところ、バビロン捕囚という悲しい時を超えて、「聖なるすえ、残された切り株」と言われる神の民が起こされるのです。キリスト者はまわりが困難になればなるほど、反対者が起これば起こる程起こされました。

そこには、神さまの忍耐と聖徒たちの服従があったことを忘れてはなりません。