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めぐみのパンくず

神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者はは彼に触れることが出来ないのです。”Ⅰヨハネ5:18

◎「私たちは知っています」とヨハネは言いました。この言葉はvs19、20にも出て来ますが、「知る」と言う言葉は人間の知識において、経験において「知って」行くと言う言葉と、神が「知る」神さまご自身の知恵を現す言葉があり、ここで言われている「知っています」は後者が使われているのです。神さまの「知っている」がキリスト者が「知っている」に使われています。これは、神さまが信仰者にはっきりと教えて下さった知識ということでしょう。三つの知っているを見てみましょう。

◎第一に信仰者は罪の中に生きないということです。キリスト者は故意に、また罪だと知りつつそのことをしないと言うのです。この地上で一度も罪を犯されなかったお方が守ってくださるからです。

◎次に、キリスト者は自分の出所を知っているということです。「全世界は悪しき者の支配にある」と言うのが聖書の証言ですが、キリスト者はそこから引き出されて聖なる神さまからの者となったのです。

◎御子イエスさまが来て下さって、真実な神さまを知る理解力を与えてくださったのは、いつもイエスさまのうちにおり、父なる神さまのうちにいることなのです。それが永遠のいのちに入れられていると言う神さまからの確信です。

◎ヨハネはこの手紙の最後に「偶像を警戒せよ」と言いました。木仏・金仏・石仏だけが偶像ではありません。心の内の偶像からも守られて歩むのです。コロサイ3:5

めぐみのパンくず

だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死にたる罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。”               Ⅰヨハネ5:16

◎キリスト者は祈る人です。自分のために必要なこと一切を祈りますが、祈りの真骨頂はとりなしの祈りでしょう。罪を犯している人々、言語では「罪を犯している現場を見たら」との意味がありますが、その時に祈りなさいとヨハネは勧めるのです。

◎しかし、罪にも二通りあるとヨハネは言います。「死に至らないもの」と「死に至るもの」とが。そして死に至る罪を犯している者のためには「願わなくても良い」と言うのです。

◎では「死に至る罪」とはどんな罪なのでしょうか。デンマークの哲学者でありキリスト者のキエルケゴールは「死に至る病とは絶望である」と言いましたが、聖書が言うところのものを見てみますと、聖霊を汚す罪があげられます。聖霊こそは救い主を示して下さるお方です。このお方を汚すような言葉、行為を示している人のために願うなと言うのです。また心が頑なになっている人には「癒されることがない。」箴言29:1とあります。時を置いた方が良いでしょう。そして、回復不可能な背教者のためにも願わなくても良いと言うのです。

◎しかし、これは強い意味での禁止ではありません。たとえ祈っても祈りが聞かれるかどうか疑問だと言うのです。ゆだねるべき課題でしょう。

◎神さまは豊かに赦したもうお方ですが、キリスト者は不正はすべて罪であることを覚えてきよく信仰生活を歩むべきだと思います。

めぐみのパンくず

世に勝つ者はとはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。”

                  Ⅰヨハネ5:5  

◎イエスさまを神さまの御子とキリスト者は信じています。しかし、この信仰が世に勝利するためのものであることを常に覚えたいものです。なぜなら世にキリスト者は生きるのですから。

◎そこで、聖書が言う「世」とは、3章16節で「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」が充満しているからだと学びました。多くの誘惑があります。また「生病老死」から逃れられない存在です。しかしイエスを神の子と信じる者には勝利が与えられるのです。

◎この信仰によるイエス・キリストが与えてくださる力は、十字架と聖霊によるものだとヨハネは記します。十字架は死とよみがえりのしるしであり、聖霊は信じる者のうちに確かな証しを与えてくださるのでこのお方によって勝利することが出来るのです。

◎ヨハネは証しを人間の証しの確かさ(マタイ18:16)にまさるものとして「あかし」と言う言葉を4度も繰り返します。

◎キリスト者が信仰者として強くなれる秘訣がここにあるように思います。困難な時、理不尽さに悩む時、不安に襲われる時、悲しみに包まれる時、イエス・キリストが聖霊によって共にいてくださり支え守って下さいます。そのことを時には証しするのです。主は真実なお方で、信仰に答えてくださるお方ですから、耐える力、乗り切る力、解決を与えて慰めてくださるのです。イエス様こそ勝利のみなもとなのです。

めぐみのパンくず

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。”         Ⅰヨハネ4:18

◎「神は愛です」vs16はこの章の主題です。13節から21節までの間にも「愛」という言葉が14回出て来ます。

◎この愛はまず、イエス・キリストを救い主として遣わして下さった事に始まりましたVs9,10。そしてそのことがはっきりと信仰によって受け取れるために、神さまは御霊を与えてくださったとヨハネは言います。誰でもイエスさまを告白する者は愛の神さまと共にあるのです。その故にキリスト者は兄弟姉妹の愛の関係に入るのです。見えない神さまの愛を見えるようにできるのが愛の関係です。

◎それだけではありません。この神さまが与えてくださった愛は「完全なものとなった」vs17と言います。それは「さばきの日にも大胆さを持つことが出来るためです」vs17と。

◎神さまの愛はキリスト者生涯のゆりかごから墓場まで、いやそれ以上に信仰者を守ります。救いにあずからせ、兄弟愛の中で愛に満ちたらせ、そしてクライマックスへ。神の前に一人一人が立つ時にも「全き愛」vs16は恐れを締め出すと宣言するのです。キリスト者はイエスさまの救いを受けました。御霊の導きの中で信仰生活を前進します。その原動力は「愛」です。宇宙の創造者、キリスト者の髪の毛一筋も数えておられる神さま(マタイ10:30)の前に立つ日が来るのです。緊張しますね。

その裁きの日に恐れを取り除いて下さる(刑罰なし)と宣告して下さるのも神の愛なのです。

めぐみのパンくず

“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。”      Ⅰヨハネ4:10

◎「ここに愛がある」とこの手紙を読むキリスト者に指差したのは、十字架のイエスさまでした。その内容は「罪のための、なだめの供え物としての」とヨハネは言います。「贖いの供え物」と訳した聖書もあり、罪を償ういけにえ、とも書かれ、英語の聖書では、私たち人間に対する「怒りを静めるために」と訳されたものもあります。罪の深さは愛の深さに伴うと言われますが、十字架を見上げて、「ここに愛がある」と確信できるキリスト者は何とさいわいなことでしょう。

◎私たちキリスト者は神さまの愛を見出すことが出来たのですが、神さまにとっては何と大きな犠牲であったかと思います。しかしヨハネは「神はこれほどまでに」vs11私たちを愛しておられるのだと言います。

◎人間にとって本当に大切なものは目に見えないと言われます。「命」も「心」も「空気」ですら目に見えません。ましてや神さまの愛もです。ところが見えないものを可視的にしていくことが出来るのが、キリスト者なのです。「いのち」ということにおいてキリスト者は永遠のいのちの希望を喜びます。世の人が味わえない喜びです。愛は教会の交わりの中で見る事が出来ると言うのです。「愛されている」ということもあるでしょうし、愛して行く姿勢に見えると思います。自分の好みではありません。自分と同じように他の兄弟姉妹も神の愛の中にある存在と受け入れる時にです。