月別アーカイブ: 2015年5月

めぐみのパンくず

”もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。   Ⅰヨハネの手紙 2:3

◎老聖徒ヨハネは「私の子どもたち。」よ、と優しく呼びかけてこの手紙を書いた目的を記します。この呼びかけは弟子たちや霊の子に対する愛情ある呼びかけです。(ちなみにこの呼びかけをこの手紙の中で7回しています。)後半の二つの「もし」を見てみましょう。

◎「もし」子供たちの中で罪を犯すものがあったら「父のみもとに」助け主、弁護人がいてくださると言うのです。この犯す罪は故意的なものではありませんが、それでも意識の中で罪だと思うこと、思わず失敗してしまったということが起こったら、父の身元で執り成して下さるお方を覚えなさいと。ただお一人、罪のための贖いとなり、真の義を示して下さったお方にすがるのです。

◎罪を犯す、弱い私たちがその中で教えられることは何でしょうか。イエスさまが全世界の罪からの救い主ということですね。このことは、罪が赦されるよろこびを、又赦して下さるお方を知れば知る程、他の人々に伝えたいと思うのです。

◎最後の「もし」はイエスさまの「戒めを守るなら」神さまを知っていることがわかると言うのです。このことは体験的に知るということです。体験的にとはどういうことでしょうか。「みことばを守る」vs5事だと思います。それにはみことばに触れ続けなければなりませんし、その中で増々、自分の弱さ失敗も気づくでしょう。それがまた、助け主  なるお方、弁護人なるお方、唯一義なるお方の下へ、キリスト者を走らせるのです。

めぐみのパンくず

“もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。”

                Ⅰヨハネ1:9

◎父なる神さまと御子の交わりに入れられた私たちキリスト者。具体的に踏み込んで、交わりとは光の中を歩むことだとヨハネは言います。光の中を歩んでいないものは、真実な信仰の歩みをしていないことになるのです。

◎光の中の交わりを持ち続ける私たちに、神さまは何をして下さるのでしょう。「罪からきよめてくださる」VS7と記されています。「罪を赦して」ではありません。このきよめは現在形で書かれてあり、イエスさまの血潮によっていつも、いつも聖くされ続けなければ神さまとの交わりを継続できないのです。間断なくも血潮によって聖くされ続けているキリスト者であることを忘れてはいけません。

◎しかしながら、ある時、あることを通して、自分の罪を具体的に覚えることがあるでしょう。ある人は信仰に入る時に、またある人は信仰者になってからかもしれません。大切なことは、その時に具体的にその罪を「言い表す」ことです。自分の罪を神さまの前に正直に言い表す時ほど、真実な瞬間はありません。御子イエスさまの血潮によってきよめてくださるのです。ここでの「きよめてくださいます」は一度起こった大切な時の時制が使われています。生涯忘れることが出来ない十字架体験となる時です。

◎自分の真相が暴かれる時ほど、辛く苦しいことはないと思います。しかし、そこを通ってこそ福音の喜びが自らのものになるのです。

めぐみのパンくず

それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、やさしくふるまいました。”   Ⅰテサロニケ人への手紙2:7

◎五月に子どもの日と母の日が続いてあることは嬉しいことです。母と子のうるわしい関係について聖書から学びます。使徒パウロはテサロニケの信徒に対して母のごとくふるまったと言います。みことばが語る母の姿をもって。

◎ここで記されている「母」は「乳母」とも訳せる言葉で、乳を与えるお母さんの姿をまず思わされます。「育てた」とは愛情一杯に、はぐくみ、温めることです。「優しさ」をともなって。「優しいと言う字は人偏に憂いと書く」と言ったのは太宰治ですが、母はその子が成長して行く中で、様々な戦いを覚えるであろうことを思いつつ、優しさという愛をいっぱいこめて育てるのです。そして8節を見ますと「いのちまでも、与えたいと思ったのです」と続きます、まさに一心同体の母子の愛情です。

◎もう一つのことは、6節に人からの「栄誉を求めなかった」とありますが、母の愛は無償の愛ですね。

◎しかし、そこで終わってしまったら聖書が言うところの真の母の姿ではありません。母の優しさもいのちを与えるほどの大きな愛も「福音」vs8に生きることを願ってこそ、なのです。「子供は成長は母から離れて行くことと比例する」と我が師は語られましたが、段々と母の視界から遠ざかって行きますね。いつまでも手元に置いておくことはできません。その子どもと永遠に共に住まう御国の福音あってこそ母の願いは完結するのです。

めぐみのパンくず

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて” Ⅰヨハネ1:1

◎ヨハネは晩年、エペソでヨハネ第一の手紙を書きました。AD90年ごろであろうと言われています。若き日にイエスさまによって弟子とされ、聖徒とされたヨハネは他の弟子たちが殉教して行く中、パトモス島で黙示録を記すまで生かされた弟子でした。

◎さて、ヨハネの手紙Ⅰは「いのちのことば」が主題であり、いのちのことばなる、イエスさまを~その福音を聞いた者がどのように父なる神、御子イエスとの交わりに生活するのかが記されています。

◎ヨハネはイエスさまのことを、耳で聞いた、目で見たvs1,3お方と紹介します。イエスさまの目撃者ですね。この二つの動詞は完了形で書かれていますが、三つ目には「じっと見て、手でさわったもの」と言う言い方をします。この言葉は一度あったことが今も継続されていることをあらわす動詞が使われており、「細やかに調べる」と言う意味があります。キリスト者は聖書の御言葉を調べ続ける存在であり、その学んだいのちのことばで生活するのです。

◎それはイエスさまとの深い交わりつながります。それがどんなに素晴らしいものであるか知った人ヨハネは、その交わりの中に、キリスト者は入っているのだと言うのです。

◎交わりの中にいる者には必然的に、喜びがあふれてくることでしょう。