月別アーカイブ: 2015年3月

めぐみのパンくず

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することはあなたがご存知です。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」”

ヨハネ21:15

◎トマスには信じるようにと迫られたイエスさま。ペテロには「愛するか」しかも、他の誰よりも・・と。ペテロはイエスさまを愛しています。しかし、イエスさまは確認されるのです。

◎三回、同じような質問と答えが繰り返されます。ペテロは三度も訊かれるイエスさまに悲しい思いを持ったようでありますが、イエスさまの「愛するか」とペテロの「愛します」とはちょっとニュアンスが違うのです。温度差があると言ったら良いでしょうか。イエスさまの愛は「アガペーの愛」崇高な神さまの愛を現す言葉ですが、ペテロの「愛します」は「フィレオーの愛」友情を現すことばです。

◎しかし、イエスさまは三度目にはこのフィレオー使ってペテロにあわせられます。かってペテロが三度もイエスさまを否みましたから、イエス様も三度確かめられたのでしょう。それはともかく、ペテロの信仰を固くするための愛の応答を引き出されたのでした。

◎イエスさまはペテロの応答に対して「わたしの子羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧之なさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。それらはイエスさまを愛するところから始まっているのです。

めぐみのパンくず

夜が明けそめた時、イエスは岸辺に立たれた。”

                  ヨハネ21:3

◎弟子たちに3度目に復活の主が現れたのはガリラヤ湖の岸辺でした。7人の弟子たちが記されていますが、彼らはもとの職業に帰ったわけではありません。食事のために漁をしたのだと思います。しかし、収穫はありませんでした。

◎その時、イエスさまは岸辺に立たれたのです。イエスさまであることがわからなかった弟子たちですが、イエスさまの「食べるものがありませんね」との問いかけに「ありません」と正直に答えた時から、ルカの福音書5章の再現のような場面になります。

◎お言葉どおり、舟の右に網をおろすと引き上げる事の出来ないほどの魚が入っていたのです。イエスの愛された弟子ヨハネがペテロに「あれは主だ」とペテロにいますと、彼は上着をまとって湖に飛び込みました。ルカでは海の底を見られる主は心の中まで見通されるイエスさまを知りましたが、ここでは義の衣を着せられたペテロを見るようです。

◎イエスさまはすでに炭火をおこし、魚を焼き、パンを備えて待っていてくださいました。そして弟子たちが取って来た魚を持って来なさいと言われます。153匹と記されていますが、この数字は「律法と恵みによって救われるすべての人々の数」、あるいは「全世界の人々が集められる教会の普遍性」を現していると学者たちは言っています。(アウグスチヌス。ヒエロニムス)

◎復活の主は、岸辺に立たれ、過去を恵みに変え、豊かな饗応をもって待っていてくださいます。天国の一こまを見るような光景です。

めぐみパンくず

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」           ヨハネ20:29

トマスは◎デドモと呼ばれていました。その意味は「双子」です。わが師は、「トマスによく似た人、双子のような人がいる」と言っておられましたが、トマスは「イエスさまの手の釘の痕を見ないと信じない、指を差し入れなければ信じない」と言ったのです。

◎その原因は、イエスさまが最初に弟子たちに現れなさった日曜日の夕、一緒にいなかったところにあります。

キリスト者は日曜礼拝を大切にします。その最も大切な事は復活の主を礼拝することです。教会は気の合うものが集まるアソジエイションではありません。礼拝の場にいなかったことが不信仰な言葉を語らせたのです。

◎しかし、その次の日曜日にはトマスも他の弟子たちと一緒にいました。前回のように戸は閉じられていましたがイエスさまが入って来られ、三度目の「平安があるように」と言われました。それからトマスが語った言葉を復誦された後、「信じない者にならないで信じる者になれ」と言われたのです、トマスの心にあった不信仰はいっぺんに消えて行ったと思います。

◎さて上に掲げたイエスさまのことば、後半の「見ずに信じる者は幸いです」をキリスト者は本当に喜ばしく大切にしたいと思います。なぜなら肉眼でイエスさまを弟子たちのように見たわけではないからです。イエスさまを肉眼で見た人たちは、時間、地域に限定された人だけでした。その後すぐに昇天されたイエスさま。このイエスさまの救いを、私たちは見ていないのですが、信じているのです。見ないで信じているのです。それはイエスさまのお言葉によれば「幸い」な事なのですから。感謝があふれて来るようですね。