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めぐみのパンくず

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」”           ヨハネ20:19 

◎ヨハネの福音書14章27節でイエスさまは「わたしはあなたがたに平安を残します」と約束されました。今日のところは、「平安」の具体的な表れが示されているところです。

◎弟子たちはイエスさまが十字架に架かられた後、ユダヤ人たちが自分たちも捕縛に来るのではと恐れていました。そこに、閉じられた戸を通り越して復活の主は来て下さいました。そして「平安があるように」と言われたのです。

◎キリスト者(弟子)にとって第一の平安は、十字架のみ傷によって得られるものです。十字架に架かられ死んでよみがえられたということは、イエスさまが負って下さった罪の代価が全部払われたということでした。よみがえりなさったからこそ罪は帳消しにされたのです。また、そこには復活の喜びがあります。喜びは一切の恐れを消し去ります。

◎第二の平安は聖霊によるところの平安です。弟子たちを宣教に遣わすために、欠かせられないことは、聖霊が彼らと共にいてくださる事でした。イエスさまが父なる神さまに遣わされなさった時、聖霊が共におられました。だから、神さまの御業がお出来になったのです。そのように、イエス様に代わって宣教に出る弟子たちに必要な最大のことはどんな時にも揺るがない平安を与えて下さる聖霊だったのです。

めぐみのパンくず

しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞきこんだ。”     ヨハネ20:11

◎イエスさまの墓はポンテオ・ピラトの名による封印がされ簡単には動かせない大岩で閉ざされていました。にもかかわらずマグダラのマリヤは(他の二人の女性とともに)墓に行きました。驚いたことに石が墓から取りのけられていたのです。そこで、マリヤは弟子たちに知らせに行きます。二人の弟子、ペテロともう一人の弟子とはヨハネが駆けつけます。二人が墓について見たものは、遺体の頭部と身体にまかれていた布切れだけでした。ヨハネはそれを見て信じたようですが、「死人のよみがえりについて書かれた(旧約)聖書を理解していなかった。」と記されています。復活はみことばの約束を確かに信じる所に確信されるのです。

◎弟子たちはまた自分の所に帰りますが、マリヤはなおたたずみ、泣きながらからだをかがめて墓の中をのぞき込みますと、イエスさまの遺体が置かれていたところに、二人の御使いがいるのが見えたのです。御使いの質問は面白いですね「何故泣いているのか」と。理由はわかっていても神の使いは、はっきりと言葉であらわせようとさせるのです。告白と応答の世界です。マリヤが理由を述べ、振り返るとそこにイエスさまが立っておられました。私たちキリスト者も主がそこに立っておられるのがわからない時があります。そこでイエスさまの方から声をかけられました、天使と同じです。「何故泣いているのか」。

◎声をかけて下さったお方が当初思っていた園の管理人ではなくイエスさまだとはっきりわかる時が来ました。イエスさまが「マリヤ」と名前を読んで下さった時でした。普段から主との交わりは名前を呼ばれあう所にあるのです。イエスさまのお声は親しみの中にあるのです。

めぐみのパンクズ

”そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料と一緒に亜麻布で巻いた。”     ヨハネ19:40

◎イエスさまの葬りの記事です。十字架と復活は信仰者にとって無くてならぬものですが、使徒パウロによると葬りは同じように大切なものだと言います。Ⅰコリント15:3,4。使徒信条の告白の中でも、「十字架につけられ、死にてほうむられ・・」と唱えます。

◎イエスさまの死は他の者の死とは全く違います。聖書は死を「恐れの王」、「神からの永遠の分離」「裁きの前段階」であると言います。しかし、イエスさまの死には、信仰の平安と望みがあふれています。イエスさまは生前「狐には穴倉あり、空の鳥には巣あり、されど人の子には枕するところなし」とご自分で言われたほどお忙しい生涯を送られました。イエス様ほど忙しかったお方はないと思います。ある学者は「イエスさまの肉体が一番安息した日は、墓の中だった」と言いましたが、そうであろうと思います。

◎私たちキリスト者は、すべての人と同じように死を迎えるのですが、信仰のない人々とは全く違います。それはイエスさまが墓の中から甦られたように、キリスト者も甦る希望があるからです。

◎さてイエスさまの遺体を引き取った二人の人物は、アリマタヤのヨセフとニコデモです。どちらかと言うと二人とも隠れキリシタン的要素がありました。しかし、イエスさまが十字架で死を遂げられたの知ると誰の眼もはばからず出てきたのです。ヨセフは新しい墓を提供しました。ニコデモは遺体の葬りに必要なものを揃えました。素晴らしい信仰告白だと思います。二人ともサンヘドリンの議会員だったことも興味深いことです。