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めぐみのパンくず

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうして来たのだ。なおわたしは運ぼう、わたしは背負って、救い出そう。”

イザヤ46:4”

◎人は時間の中に生きています。また与えられた時代の中に生きています。なぜ昔ではなく、未来でもなく今なのか?

◎キリスト者は明確に答えることができます。神さまが造って下さり今の時に生かして下さっていると言うことを。故に神は責任をもとって下さいます。みことばを見てみましょう。

◎「胎内にいる時から」「生まれる前から」~口語訳では「わたしは造ったゆえに」とあります。始まりの確かさは人生の土台です。微生物から進化して来たのではなく、偶然が生み出した産物でもありません。

◎「背負う」私たちの人生をおんぶして下さると言うのです。この御言葉も口語訳聖書で見ますと「かならず負い、持ち運び」とあります。リビングバイブルでは「道中持ち運び」です。神さまの背に担われている人生であることを忘れてはいけません。

◎最後に「救い出そう」と言われます。イエスさまを信じて罪から救われたがゆえに救い出されるのです。「生病老死」の世界から、様々な艱難辛苦から、救い出される日がキリスト者には待っています。信仰のない人々も神さまの前に出なければなりません。しかし、終わりの時の救いはないのです。このかたに任せてこの一年の旅路を進みましょう

めぐみのパンくず

ベツレヘム・エフラタよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。そのことは、昔から、永遠の昔からの定めである。”                  ミカ書5:2

◎旧約聖書の預言者イザヤともにミカは紀元前700年代後半にイエスさまの誕生を預言しました。その内容は「どこで生まれなさるか」でした。

◎ベツレヘムとはパンの家と言う意味ですが、マタイやルカの福音書を見るとイエスさまのこの世の父としてのヨセフの出身地です。彼らはナザレに住んでいましたが、ローマの皇帝による人口調査のため、ベツレヘムに帰ったのです。そのベツレヘムの馬小屋でイエスさまはお生まれになりました。

◎そのことが「昔から、永遠の昔から定められていた」と言うのです。英語の聖書にはFrom old From Everlasting。と記されています。私たちはいつ、クリスマスを知ったでしょうか。いつ本当のクリスマスを迎えたでしょうか。驚くことに永遠の昔からクリスマスは予定されていたと言うのです。罪人の世界に救い主を送るために。

◎エペソ人への手紙を思います。「世界の基の置かれる前からキリストの打ちに選び、御前で聖く傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによって自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられるのです。」エペソ1:4,5。神さまの広大な救いのご計画の中にクリスマスも予定されていたのです。

めぐみのパンくず

ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレのイエス。」と書いてあった。”  ヨハネ19:19

◎「ナザレのイエスを十字架に架けよ要求した人、許可した人、執行した人、それらの人々の中に私はいる」と瞬きの詩人水野源三さんはよみました。十字架は神さまの愛の表れとともに罪の代償なのです。そのことを心から自分のためと理解することが十字架の救いです。

◎イエスさまは三本の十字架のど真ん中に立てられました。十字架刑はもっとも厳しい処刑法です。その中央にイエスさまがかけられたのは罪の裁きの厳しさ見せつけられるように思います。

◎興味深いのは、イエスさまの罪状書きに「ユダヤ人の王ナザレのイエス」と書かれてあったことです。しかもヘブル語、ラテン語、ギリシャ語の三つで。ヘブルは信仰の世界、ラテン語はローマ帝国を表す力の世界、ギリシャ語は哲学(学問)の世界を現します。イエスさまはあたかも、信仰の世界の王だけではなく、力の論理、哲学 の論理の世界においても王なる方であることを示しているのです。

◎ユダヤ人たちは「ユダヤ人の王と自称した」と書いてくれと反発しましたが、ピラトはこの点に於いては妥協しませんでした。

◎イエスさまは全世界の王です。ピラトがイエスさまを十字架につけた人たちへの皮肉で書いた罪状書きが世界の王であることをしめしたのは、神さまの逆転勝利の表れです。

めぐみのパンくず

それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った”  ヨハネ19:5

◎「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とキリスト者は使徒信条告白の中で唱えます。そのピラトは聖書を見ますと、イエス様の裁判の渦中、随分悩んだことだろうと思います。しかしながら、優柔不断であり結局はイエスさまを十字架につけてしまいました。

◎ピラトは王の格好をさせられたイエスさまを群衆に示しながら「この人には罪がない」と二度叫びます。法的な罪はないということでしょうか。イエスさまは正しい人、世界の三聖人と知っている人は多いですが、原罪をも持たないお方だとは認めていないのです。

◎また、ピラトはイエスさまを十字架につける最終決定は自分にあると思っていました。Vs10イエスさまが十字架に架かられるのは罪びとの贖いに対する神さまのご計画であり、みこころであるということなど考えも及ばなかったのです。

◎またピラトには恐れがありました。そのことがイエスさまの十字架刑にゴーサインを出すことになります。それはユダヤ人たちが語った「神の子とした」、「カイザルの他私たちには王はない」ということばにでした。この世の権力者(ローマ皇帝)を恐れ、自らの立場が崩壊することを恐れたのです。

◎キリスト者は「イエスではなくバラバを」でもなく、この世に迎合していくものでもありません。十字架のイエスさまを見つめ信じ続けて行くのです。