月別アーカイブ: 2014年3月

めぐみのパンくず

“しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、業を信じなさい。” ヨハネ10:34

◎時は冬であり、宮きよめの祭りだったとヨハネは記します。宮きよめとは神殿奉献の祭りで、かつってシリヤの王によって偶像化されたものを、もう一度神さまの宮としてささげなおしたことに由来します。しかし、真の宮はイエスさまの復活にあることをイエスさまは以前話されました。ヨハネ2:20。

◎ユダヤ人達にとっては気をもませるイエスさまの姿です。信仰がないといらだちます。羊でないと彼らはイエスさまの言われることが受け入れられません。その上にイエスさまが「わたしと父(神)とは一つです」のおことばに、ユダヤ人たちは怒りをあらわにし、イエスさまを撲殺しようします。そこで語られたのが上のみ言葉でした。

◎イエスさまがまこと神の御子であることの証拠にご自身の〝業“を信じなさい、そうすれば神さまとイエスさまが一つであることがわかるだろうと言われました。信仰の世界は見えないお方を見ているがごとくに信ずる世界ですが、振り返って、何故信じることが出来たかを考えますと、三位一体の神さまがして下さった業をしり(あるいは見たから)信じたのですね。一番の大きな御業は十字架と復活です。昇天されたことも業に入るでしょう。

◎しかし、その前に、イエスさまを信じた人々の業、その信仰生活、よろこびの証しを通して「それなら、私も信じてみたい」と思ったのではないでしょうか。鰯の頭も信心ではなかったと思います。弟子たちは「見たこと、聞いたことを~」使徒4:20と言いました。聖霊の働きによる聖徒たちの内になされ現されたた一つ一つの業、キリスト者はそれを見続けて行くのです。一人の信徒の言葉。「証しを聞くことは、私が信じている神さまはこんな素晴らしいお方と思うと嬉しくなってきます。」と、聖徒としての行状を大切に歩ませていただきましょう。

めぐみのパンくず

“わたしは来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。” ヨハネ10:10、11

◎イエスさまとキリスト者の関係は、羊飼いと羊の関係です。さまよう羊をイエスさまは見つけ出し、牧舎の中で養って下さるのです。その目的は「いのちを得させ、豊かに持たせる」ためです。このいのちとは「永遠のいのち」のことです。聖書の中に出てくる{いのち}と言うことばは、地上におけるいのちと、永遠のいのちの二通り記されていますが、これは永遠のいのちです。

◎さて、イエスさまは、このいのちを与えるために、ご自分のいのちとの交換に来られました。他に誰一人として、いのちを与えることが出来ない中で、イエスさまはご自分のいのちを捨てることによって、死ぬべき羊にいのちを与えて下さったのです。

◎羊とはこのことを信仰によって受け取っているものです。ヨハネは「知っている」vs14という表現を使いました。イエスさまがいのちを捨てて羊であるキリスト者を愛して下さったことをキリスト者が知るのは「父なる神さまが、みこなるイエスさまを知っている」ことと同じだと言われるのです。Vs15.父なる神さまはイエスさまの何を知っておられたのでしょう。すべてご存知の神様が知っていると言われるのは何なのでしょう?それはみこイエスさまが父なる神さまのみこころを100%受け入れ、放っておいたら滅びゆく羊のために、ご自身のいのちをお捨てになったことを知っておられたということです。その故に17節では「父はわたしを愛してくださいます」とイエスさまは言っておられます。

◎父なる神さまのみこころを知りいのちを捨てられたイエスさま、同じように、いのちを捨てて下さったイエスさまを信じるキリスト者をも父なる神は愛して下さるのです。ハレルヤ!

めぐみのパンくず

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所から乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧舎です。」     ヨハネ10:1~2

◎イエスさまとわたしたちの関係をヨハネ伝は、「牧者と羊」「ぶどうの木とその枝」(15章)で現しています。

◎羊は100%家畜であることを以前学びました。囲いの中で牧者に世話をされて生きて行くのです。一匹だけで野生の生活は決してできません。

◎キリスト者である私たちも、イエスさまの庇護のもと守られ養われて育って行く者です。その囲いですが、それは教会のように思われます。旧約聖書においても、羊飼いと羊の関係は神さまとイスラエルの民との関係として記されていますが、神さまがお立てになったはずの指導者たちは、民たちを正しく養うことが出来ませんでした。むしろ自分勝手に扱ったことが記されています。(エゼキエル34章)。イエスさまはまことの牧者として、羊を養うために来て下さったのです。そして教会を建て上げられました。

◎しかし、その羊をしばしば盗みに来る強盗があることに注意を促しておられます。そのためにイエスさまと強盗との違いを羊(信者)はしっかりと見極めていなければなりません。囲いの門を開かせるのは本物の羊飼いであり、羊の名前を呼ぶと羊は彼の声を聞きわけるのです。他の者の声か、イエスさまの御声かはっきりと聞き分ける信仰の能力を羊は与えられているのです。真のキリスト者がイエスさま以外についていかないのはこのことがわかっているからですね。

◎囲いは教会と言いましたが、キリスト者の安全な場所であることも忘れてはいけません。教会にて礼拝をささげ共に祈る。眼には見えませんが、神さまの、他の力の侵入を許さない聖域が示されているのです。

めぐみのパンくず

もし、あなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなた方は今『私たちは見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。”                ヨハネ9:41

◎イエスさまに目を開かれた人は、イエスさまを弁護したゆえに、追い出される結果になりました。イエスさまはイエスさまのために真実を語る者を放っておかれる方ではありません。お会いになり語られます。「あなたは人の子を信じますか。」と、神であられるお方が、人となって来たことを信じるのか、長く待ち望んでいたメシヤの到来を今信じるかとたずねられるのです。その人は信じたい強い気持ちを現します。イエスさまはその人にはっきりとご自分が救い主であられることを語られました。「主よ。私は信じます。」麗しい信仰告白です。存在をかけた信仰告白ですね。

VS39はイエスさまの宣言です。救い主として来られたお方はさばき主としても来られたお方です。その裁きの内容とは「見えないものが見えるようになり、見えないものが見えるようになる」というものです。イエスさまは盲人の眼を開いて後、このメッセージを語っていますが、それは霊の眼を(心の眼も踏まえて)開きに来られたことをあらわしています。どんなにこの地上で碩学を積んでも、修行しても開かれない世界をイエスさまは開いて下さることのできるただおひとりの救い主なのです。

◎反対に見えるものを見えないようにするとも言われました。人間は肉眼で見えるものだけを中心に、自分の心の状況(知識、経験)と合わせて、見えている~わかっていると思うものなのです。自己中心で見つめる世界です。凝り固まった世界と言ってもよいでしょうか。しかしそんな人たちに決定的に見えない世界が訪れます。神さまのご支配、霊的な世界がまったく閉ざされる。パリサイ人は大切なこのことに盲目だったのです。