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めぐみのパンくず

“それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた”ルカ2:17

○日本中がクリスマスにわいています。その中でキリスト者の迎える真のクリスマスはどういったものか4組の人々から学びましょう。

○まず、羊飼いたち、当時、疎外されていた職業である羊飼い、人口調査の対象にもなりませんでした。その孤独な彼らに御使いは救い主の誕生を知らせたのです。イエスさまを拝した彼らは、その後「幼子について告げ知らせた。イエスさまの誕生をぺチャクチャと喋ったのです。キリスト者は福音の宣伝マンでありたいと思います。

○二人目はマリア、イエスさまを産んだ後マリヤは「これらのことをすべて、心に納めて思いを巡らせていた」vs19と。クリスマスは過去の信仰を振り返り、イエスさまが心に宿って下さり、主と共に歩んできためぐみの道のりを振り返る時だと思います。楽しく過ごすのもクリスマスですが、信仰の瞑想の時でもあると思います。

○シメオン老人、イエスさまの八日目の割礼の日、神殿で幼子イエスさまを見たシメオンは、主キリスト、しかも幼子のイエスさまを見て「みことばど

おり、安らかに去らせて下さいます。」vs29と言いました。クリスマスは御国の約束をしっかりと告白する時です。

○最後に三人の博士たち、黄金、没薬、乳香をささげて、王の王、大祭司、十字架の救い主であることをあらわしました、そして、礼拝したのです。興味深いことに、ヘロデのところへ戻らず「別の道を帰った」マタイ2:12とあります。真実な礼拝者は罪の道に帰りません。クリスマスの祝福を思う時となりますように。

めぐみのパンくず

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神はわたしたちと共におられる、という意味である。)     マタイ1:23

○告知天使によって、ナザレの大工ヨセフに夢の中で語られたメッセージは、ヨセフの不安を取り除くことから始まりました。許嫁であったマリヤのお腹が大きくなったのです。イスラエルにおいて姦淫の罪は撲殺の刑でした。ヨセフは正しい人であったので苦悶しますが、慈愛の人でもありました。そっとマリヤを去らせようと考えましたが、その苦しみは大きかった方事でしょう。「天使は安心して妻マリヤを迎えなさい。」と言いました。

○肉によらず、霊によってマリヤのお腹に宿られたイエスさまの目的は二つ。一つは「ご自分の民」の救いです。イエスさまを救い主として受け入れる者のあらゆる罪が赦されるのです。マタイの冒頭に系図が出て来ますが、これは罪びとの系図です。イエスさまの父、ヨセフの系図ならばさぞかし聖い系図と思われがちですが、そうではありません。イエスさまは罪びと系図の中に救いをもたらされたのです。

○第二に、罪を赦すだけでなく、信じる人の内に神であられるイエスさまが住んで下さると言うのです。イエスさまの誕生700年前、希望の預言者イザヤはこのインマヌエル(神共に在す)お方が救い主となって来られることを予言しました。

 キリスト者とは、罪から救われ、罪を宿していた心の真ん中に、イエスさまが来て下さったとの、喜びを知っている存在であり、この喜びを人々に伝える者なのです。

めぐみのパンくず

“わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからである。”ヨハネ7:29

○イエスさまはこの言葉を「大声で語られた。」と聖書は言います。叫ばれたのです。ユダヤ人たちはイエスさまがナザレの出身であることは知っていました。 しかし、父なる神さまから遣わされたことを理解していませんでした。そのユダヤ人に向かって叫ばれた。その叫びをしっかりとキリスト者は受け止めたいと思います。

○真の神さまを知らない人たちは、自分たちの出所をしりません。この世界は唯物論で満ちていますが、人間の始まりと終わりが何であるかによって、生き方が全く違ってきます。人類の始まりがアメーバ―か、人格ある神さまの似姿に造られた存在であるかでは、その歩みにおいて違ってくるでしょう。しかも何処へ行くのかという目的をもたない存在は、希望のない存在であり、時には自暴自棄な生き方で終わってしまいます。

○私たちキリスト者は知っています。イエスさまが神さまから遣わされたお方であり、また遣わされたお方の所へ帰って行かれるお方であることを。

イエスさまが来てくださった事によって、存在そのもの目的がはっきりしたのです。

○しかし、イエスさまが「父なる神さまを知っている」と言われる知り方と、私たちが今イエスさまによって知っている事には、少し段階の違いがあります。キリスト者は、みことばを聞き神さまの子どもとしての歩みがあることを知識でしります。そして、御霊の助けにより経験的に、信仰生活を送ります。しかし、イエスさまのように、父なる神さの所、出て来た所、帰るところを完全に知っているわけではありません。だからこそ、イエスさまと共に歩むのです。