- 日時:2026-03-08
- 聖書箇所:第一コリント10章6~13節
- 説教題:試練をくぐり抜ける者
暗唱聖句
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
第一コリント10章13節
説教要旨
悪を善に造り変える全能の神
「これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。・・・これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(6,11)。
イスラエルの民は神さまに対して罪を犯し多くの者が滅ぼされてしまいました。それは今を生きる私たちを戒める実例であり、私たちの教訓とするためであった、と聖書は語ります。過去を振り返って反面教師とせよ、というのとは少し違い、過去の悪行をも神さまは将来のために起こされたのだ、という意味の言葉です。無から有を創造する神さまは、悪を善に造り変えるお方です。キリストの十字架の出来事は、まさに創造の神、全能の神さまの力が発揮されたときでした。悪を犯してよいということではありませんが、神さまは悪をも善に造り変え、将来に生きる者の益とすることの出来るまことの神さまです。
すべての苦しみは誰かが経験したものである 耐えられない試練はあたえられない 神さまは必ず脱出の道を備えて下さる
「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。」(13)
私たちが経験した試練は、すべて誰かが経験したことのあるものである、と聖書は語ります。
苦しみの中に置かれたとき、これは私だけが経験している特別なことであって、この苦しみはだれにも理解してもらえない、と思いたくなるものです。しかし聖書は、そのようなことはない、長い人類の歴史の中で必ず誰かが経験したことである、と語るのです。もちろん全く同じ苦しみというものはないかもしれません。しかしよく似たものはあります。自分だけが経験しているものだと思い込んで心を閉ざしてしまうのではなく、誰かも経験したものであると心を開きましょう。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。」(13)
もし試練の中にあるならば、その試練は私にとって耐えられる試練である、と聖書は語ります。神さまは私という人間がどのような人間であるのかをよく知っておられます。こんなに大きな試練に耐えられるであろうか、と不安になることがありますが、神さまは耐えられない試練にあわせることはなさいません。
「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(13)
どのような苦しみであっても必ず終わりがある、と聖書は語ります。暗いトンネルのなかに置かれたようなときにも、必ず出口があることを信じましょう。信じて歩み続けましょう。
誰かも経験したものだ、耐えることが出来るものだ、必ず脱出の道が備えられていると信じるならば、試練をくぐり抜ける者になれるのです。
神は真実なお方です
「神は真実な方です。」(13)
試練の中にあっても、この試練は誰かも経験したことである、耐えることができるのだ、必ず脱出の道が備えられていると常に信じることができるならば幸いです。しかしそう思えないこともしばしば経験します。これは私しか分からない苦しみだ、私には耐えることができない、脱出の道などあるはずがない。そう思い始めると途端に不平が出てきます。どうして私だけにこのような苦しみが起こるのか、神さまは意地悪をされているのだろうか。不真実なお方なのだろうか。キリストを試み始めます。もうこんなことならば好き勝手に生きてしまおう。淫らなこと、不品行や神さまに対する背信が起こります。神さまの真実が見えなくなると、もっと自分好みの、自分の欲望を満足させてくれる神々を求めていこうとします。偶像礼拝者となっていきます。出エジプト記32章で、金の子牛を作ったイスラエルの民のように。
試練とは、苦しみの中にあってもなお神さまがご真実なお方であると信じることができるかどうかが試されることです。苦しみにあっても、なお神さまのご真実を信じ、人生をあきらめず、自分らしく喜びと感謝を失わずに生きていきたいと思います。神さまはご真実お方です。今与えられている試練が人の知らないものではないことを知り、その試練が耐えられないものではないと信じ、また耐えられるように神さまは脱出の道を備えてくださると信じる者とされたいと思います。
祈り
あなたの真実に生きる者としてください。

