詩篇75編で見つめられているのは、神さまこそがさばき主であることです。神さまはさばき主です。罪を罪としてさばく方です。罪は罪としてさばかれなければならないのです。
私たちがいただいた赦しはさばきを前提としたものです。イエスさまが十字架によって受けてくださった神さまのさばきです。そして、そのさばきがあるからこそ、赦しは決して揺らぐものではないのです。権力者の勝手な都合で、世の中の雰囲気に合わせて、与えられたり取り去られたりするようなものとは異なります。私たちが受けるべきさばきを、罪のない神さまご自身が、主イエスさまが、代わりに受けてくださいました。私たちがいただいた赦しは、その確かなさばきを土台としているのです。
さばきを前提としない罪の赦しは、不確かなものでしかありません。さばきがさばきとしてあるからこそ、罪のないイエスさまが私たちの代わりにさばきを受けてくださったからこそ、罪の赦しは確かなものとなるのです。そして、その罪の赦しの恵みを恵みとして喜び感謝するのは、イエスさまの十字架のさばきを見つめるところにおいてです。イエスさまの十字架のさばきを見つめるところにおいてこそ、私たちは赦された恵みを恵みとして喜び感謝するのであり、そこから信仰生活は前進していくのです。
どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。(マルコの福音書14章36節)