説教音声・要旨 2026年2月8日(日)

  • 日時:2026年2月8日(日)
  • 聖書箇所:第一コリント9章24~27節
  • 説教題:信仰の走り方

暗唱聖句

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

ピリピ3章13c,14節

説教音声

説教要旨

私たちは朽ちない冠を受ける

すべて人は神を知らず罪と滅びの中に死んでいく者でした。罪、すなわち的の外れた生き方をし、どんなにこの世から評価される生き方をしたとしても、結局は死で終わる虚しい人生でした。しかしイエスさまにお出会いし、イエスさまを信じて生きるようになって以来、罪赦され永遠のいのちに生きる者へと変えられました。パウロは、イエスさまを信じた者はみなこの「朽ちない冠を受ける」と語ります。競技をする人たちは勝利のしるしとして月桂樹の葉でできた冠をいただきます。月桂樹の葉の冠はいつか朽ちてしまうものです。しかし私たちのいただく冠は決して朽ちることがありません。

この、私たちがやがていただくことになる「朽ちない冠」とはいったい何であるのか。ある人は「永遠のいのち」といいました。私たちが今生きている命には限りがあります。しかしやがていただくいのちは永遠のいのちです。終わりがありません。もはや死を恐れて生きることから完全に解放されるのです。

またある人は「福音そのものである」といいました。私たちはイエスさまを信じて罪赦されましたが、依然罪との闘いは続いています。しかしやがてのとき、まさに神の子とされます。もはや罪との闘いは終ります。 完全にきよめられて、文字通り新しい人に造り変えられるのです。

さらにある人は、イエスさまに顔と顔とを合わせてお出会いすることそのものである、といいました。今は鏡に映るようにおぼろげながらにイエスさまを見ています。しかしそのときには直接お出会いします。私たちはその時を待ち望んでいます。

イザヤ書6章5節で、神さまにお出会いした預言者イザヤが語ったように、罪びとでしかない人間が神さまに出会うということは、滅ぼされるときであるはずです。しかしイエスさまの十字架と復活によって贖いをいただいた私たちは、神さまにお出会いすることが喜びとなりました。そのとき私たち自身が神さまに出会うにふさわしい者へと完全に変えられるからです。神に出会う喜びは、自身が完全に変えられる喜び、いわば自分が完成される喜びでもあるのです。「朽ちない冠」をいただくとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25・21,23)との主の御声を聞くのです。

信仰者の走り方

イエスさまを信じて新しく始まった信仰生活が、やがて「朽ちない冠を受ける」ことになる。その恵みの希望をいただいた私たちは今の生き方を変えます。オリンピックに出場する選手たちは、競技の日を目指して日々鍛錬をしています。筋力トレーニング、食事のコントロール、フォームの見直しなどなど。いずれも金メダルを手にするために、あるいは自分なりの目標を得るために、さまざまに努力を積み重ねます。それと同じように主にある者は「あらゆることについて節制」する、「目標がはっきりしないような走り方」「空を打つような拳闘」をしない、「自分のからだを打ちたたいて服従させる」生活をします。

競技場で走る人たちはみな走っても賞を受けるのは一人だけですが、イエスさまを信じて信仰生活をひた走る私たちは、すべての者が一等賞を受けます。信仰によって罪の赦し、永遠のいのちは約束されました。だからこそ、その確かな喜びは、私たちを「賞を得られるような」走り方へと招きます。あらゆることについて節制する喜びに生かされるようになるのです。

「節制」とは自制する、自分を制御、支配するという意味です。自分を支配する、すなわち自分を思い通りにコントロールするということは、自分自身を自由に扱う、ということです。食べたい放題、飲みたい放題、やりたい放題は、自分の欲望の奴隷になっているだけであって自由ではありません。本当の自由は、賞を得られるような走り方へと自分自身を導くことです。そうして神さまに造られた者としての本来の力を発揮するのです。

23節で「私は福音のためにあらゆることをしています」とパウロは語りました。何とかして幾人かでも救うために、ユダヤ人にはユダヤ人のように、すべての人にはすべてのものとなる。そのために自分を自由に取り扱う。自分を自由に変える。そのために節制していく。

一つのあるべき姿に向かって自分を型にはめるというのではなく、やがてのときに朽ちない冠を受けることを知ったのですから、今を生きる私たちは安心してどのような姿にも自分を変えることができる。それがキリスト者の生き方であるというのだと思います。そのために私たちは節制し、自分のからだを打ちたたいて服従させます。それがはっきりした目標をいただいた信仰者の走り方です。

祈り

「 私が主に願った一つのこと

私はそれを求め続けよう。

命のあるかぎり主の家に住み

主の麗しさにまみえ

主の宮で尋ね求めることを。 」  (詩篇27編4節)

 主よ、そのように私を生かしてください。

 

説教20260208-01
説教20260208-02


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