- 日時:2026年1月25日(日)
- 聖書箇所:第一コリント9章19~23節
- 説教題:福音の恵みをともに受ける
暗唱聖句
私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
第一コリント9章23節
説教音声
説教要旨
救われた者はキリストの律法を守る~互いに重荷を負い合う
「私自身は律法の下にはいませんが」(20)
「私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが」(21)
罪の苦しみ、死と滅びに生きなければならなくなった人間をあわれまれた神さまは、人間に律法を与えてくださいました。律法を守るならば幸せに生きることができるとしてくださったのです。しかし人間はこの律法を乱用し、互いをさばく道具にしてしまいました。もはや律法を守り行うことによっては幸せに生きることができなくなりました。そのような私たちのところにイエスさまは来てくださいました。まことの神であるにもかかわらず人となってくださり、私たちの罪をすべて背負って十字架にいのちを献げてくださったのです。さらには三日ののちに復活され死を滅ぼしてくださいました。イエスさまを信じるならば、罪と死から救われ、神さまの赦しと永遠のいのちに生きることができるのです。
ユダヤ人でありパリサイ人であったパウロは律法の下にいました。律法に忠実に生きようとしたパウロは、イエスさまを信じる者を迫害するほどでした。しかしダマスコへの途上においてイエスさまに出会い人生が180度変えられ救われました。それからは律法の下にはいない人間となったのです。律法を守り行うことではなく、イエスさまを信じることによって救われる、と大胆に宣教するようになりました。
私たちも、パウロのように律法を守り行うことによって救われるのではなく、イエスさまを信じることによって救われると信じています。しかし律法の下にいないということは、何をしても自由、行いなど必要がない、ということではありません。パウロは、自分は「キリストの律法を守る者である」と言いました。
ガラテヤ書に次のような言葉があります。
「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります」
(ガラテヤ6・2)。
キリストによって救われた私たちは、律法を守ることから自由になり、キリストの律法を守る者になりました。互いの重荷を負い合う、というキリストの律法を守る者。それが救われた者の新しい生き方です。
救いは神さまの御業である~何人かの救いのためにすべてのものとなる
「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです」(22)。
すべてのものとなったのは、すべての人を救うためである、とはパウロはいいませんでした。「何とかして、何人かでも救うためである」。パウロはそう語ります。
すべての人が救われることをパウロは願っていると思います。しかし自分の働きによってすべての人が救われるとは語らない。何人かでも救うことができるならば、自分の働きは満足である。そう語るのだと思います。これは、救いが人間の努力によってなされることではなく、どこまでも神さまの働きであることを知っている人のことばだと思います。
数人のために、あるいはひとりのために、すべてとなる。ひとりのユダヤ人のために、ユダヤ人のように、ひとりの異邦人のために異邦人のように、いま目の前にいるひとりのために、自分自身を変えていこうとする。宣教は、如何に自分を変えていくことができるかにかかっている。それがパウロの説教に向かう心でした。
自分を変える。それは自分に死ぬことであり、自分を殺すことなのだと思います。そう簡単にできることではありません。しかしキリストを信じた者は、そのように生きることを喜びとすることができるのだと思います。
イエスさまは神であるにも関わらず人となってくださいました。自らを献げてくださり、私たちを救ってくださったのです。私たちもそのような生き方に招かれているのだと思います。
福音の恵みをともにうける者となる~双方向の愛に生きる
「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです」(23)。
福音のためなら、すなわち、人を救うためならば、どんなことでもすると語るパウロ。その目的は、福音の恵みをともに受ける者となるためである、と語りました。
福音の恵みは、それを受け入れた者に恵みを与えるとともに、語る者にも恵みを与えるものです。福音が自らを罪と滅びから救った喜びの知らせであることを信じた者は、それを語ることをまた喜びとします。福音宣教は一方通行ではない、ということです。
福音を宣教する。すなわち愛するということは一方通行ではないのです。イエスさまは弟子たちを宣教に遣わすにあたり最小限の持ち物で出発するように言われました。それは行く先々で施しに与ること、すなわち愛される者となるようにと願われたのだと思います。自らが愛されることを想定しない一方通行の愛のわざは、上から下への施しであり、相手を傷つけ、惨めにします。それはもう愛のわざではありません。福音宣教ではないのです。
主が私たちを遣わしてくださるとき、福音の恵みをともに受ける者であれ、と主は遣わしてくださるのです。子どもたちに奉仕するときに、私たちは子どもたちから福音の恵みを頂きます。互いに重荷を負い合うときに、お互いに福音の喜びを分かち合います。社会に遣わされるとき、その先々で私たちは福音の恵みをともに受ける者となります。
祈り
救いの前進のために、自らが変えられていく喜びに満たしてください。そうして互いに重荷を負い合うことによってキリストの律法を全うし、福音の恵みに与る者としてください。

