詩篇69編の詩人は「深い泥沼」のような状況の中で神さまの救いを求めて祈ります。苦しむ詩人の祈りの中には、十字架の苦しみを受けられたイエスさまを指し示す言葉が出てきます。例えば9節です。「あなたの家を思う熱心が/ 私を食い尽くし」。イエスさまが神殿の中で商売を行う人々を戒められた時に、弟子たちが思い起こした言葉です。イエスさまは神さまの家を思う熱心のゆえに、人々から食い尽くされてくださいました。
イエスさまは「ゆえなく」十字架にかけられてくださいました。十字架にかかり続けてくださいました。辱しめを耐え忍んでくださいました。それは神さまの家を思う熱心のゆえでした。神さまのみこころが成し遂げられるために、私たちが救われて神さまを礼拝して生きる者となるために、イエスさまは食い尽くされてくださったのです。
イエスさまが十字架から降りておられたら、イエスさまが食い尽くされてくださらなかったら、私たちの救いは実現しませんでした。イエスさまの熱心のゆえに、私たちの救いが実現し、私たちの信仰生活は支えられているのです。
信仰の熱心とは、私たちの救いのために、十字架の苦しみを耐え忍んでくださったイエスさまを見つめることに熱心であることではないか、そんなことを思います。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(へブル人への手紙12章2節)