説教音声・要旨 2026年1月11日(日)

  • 日時:2026年1月11日(日)
  • 聖書箇所:第一コリント9章1~18節
  • 説教題:福音を語る喜び

暗唱聖句

主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。

エレミヤ書20章9節

説教音声

説教要旨

福音にはそれ自体に力がある

おそらくパウロたちに対して「お金儲けのために伝道している」と言ってさばく人たちがいたのでしょう。パウロは、旧約聖書やイエスさまのお言葉を引用して、福音を宣べ伝える者が福音の働きから生活の支えを得ることは当然のことである、奉仕者にはそのような権利があるのだ、と語ります。

しかしパウロはその当然の権利を、自分は用いなかった、と語りました。

「ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます」(12)。

パウロがその権利を用いなかった理由の一つは「キリストの福音に対して何の妨げにもならないように」ということでした。

人びとが信仰に進むために、パウロたちが福音宣教によって報酬を得ることが妨げになるのではないか。パウロはそう考えたのです。それで、報酬を受けることは当然の権利ではあるけれどもそれを辞退したといいました。

 「福音に対して何の妨げにもならないように」。福音は福音自体が持っている圧倒的な力によっておのずと前進します。私たちはその福音の邪魔をしないようにしなければならない。それがパウロの伝道に対する姿勢でした。

福音宣教において私たちは何とか人びとが受け入れやすいようにと願うあまり加工したり脚色したりすることに腐心しがちです。しかし福音はそれ自体に力があるのです。私たちは福音そのものの力に信頼し、福音が前進するのに邪魔をしないようにすることが大切なことなのだと思います。それが伝道することであり、福音宣教なのです。

キリストの福音を宣べ伝えずにはいられない

「しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」(15,16)。

パウロが報酬を得ることを辞退したもう一つの理由は、権利を用いて報酬を得たとき、そこに生まれる誤解がパウロの誇りを傷つけたからなのだと思います。自分はお金のために伝道しているのではない、ということが言いたかったのです。

福音宣教は、お金のためではない。そうせざるを得ないからしているのだ。強いられていているのだ。私に務めとして委ねられていることなのだ、と語ります。だから福音を宣べ伝えても、自分の誇りにはならない、とも語りました。

では、パウロは福音宣教によってどんな報いがあるのか。

「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです」(18)。

「福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供すること」、「福音宣教によって得る自分の権利を用いないこと」。それが自分にとっては報酬である、というのです。逆に、もし福音を宣べ伝えないなら、自分はわざわいである、不幸である、といいます。福音を宣べ伝えること自体が、パウロにとって喜びであり、生きるということだったのです。

報酬とか報いというと、何かの行動があってその結果与えられるもの、という感じがします。報酬を得るために労働をする、報いを得るために善行をする、といった具合です。それに対してここでパウロが語っているのは、福音を宣べ伝えること、そのものが自分にとっては報酬である。その報酬が真実の報酬となるためには、自分にとってはそれが無報酬でなされるものでなければならない、自分の権利を用いないでなさなければならない、というのです。そうでなければ、真実の報酬でなくなってしまう。福音を宣べ伝えることによっていただく喜びが失われてしてしまう、というのです。

パウロにとって宣教活動はけっして容易なものではなかったと思います。牢屋に入れられることも、暴力を振るわれることも、さまざまな危険に遭遇することもありました。しかしいかなる時もその根底には確かな喜びがあったのだと思います。それは、圧倒的な神さまの愛の中に生かされていることを知り、罪と滅びから救われたからです。

福音を聞いた、ということは、よい教えを聞いて感心した、興味深いお話を聞いた、面白い処世術を聞いた、などということではないのです。滅びに向かうしかなかった自分を、神さまは圧倒的な愛とあわれみをもって救い出してくださった、ということなのです。そのために、神ご自身がいのちを差し出してくださった、復活し死を滅ぼし、永遠にともにいると約束してくださったのです。主を信じたということは、救われたということなのです。語らずにいられることがあるでしょうか。福音を語るということは、福音に生きるということなのです。真実に救われた者は、その喜びを誰かに伝えずにはいられないのです。

預言者エレミヤも次のように語りました。

「主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。」 エレミヤ書20章9節

すべての人がいわゆる伝道者として生きるのではありません。しかし主に救われた者はすべてこの、福音に生きる、という喜びをいただいています。ある先生は、伝道することは愛することである、と言われました。神さまに真実に愛された者は、誰かを愛さずにはいられないのです。そして誰かを愛することが、人生の喜びとなるのです。愛にはそのような力があるのです。

祈り

あなたの圧倒的な愛とあわれみによって救われた喜びは、私のうちに燃えるさかる火のようになり、内にしまっておくことに耐えられない。語らないではいられない。語らないならば不幸である。伝道者たちのことばに出会い、あらためてあなたの愛とあわれみの大きさを学びました。どうか喜びを持ってあなたの愛に生かされる者、あなたの愛を語る者として遣わしてください。

説教20260111-01
説教20260111-02


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