主日礼拝説教:2025年12月28日(日)
聖書箇所:マタイの福音書2章1~12節
説教題:まことの王の誕生
暗唱聖句
それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
マタイの福音書2章11節
説教音声
説教要旨
ユダヤ人の王
イエスさまがお生まれになったのはヘロデ王の時代でした。そのヘロデ王のいるエルサレムにやって来た東方の博士たちが言うのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」。博士たちの言葉を聞いたヘロデは幼子のイエスさまを殺そうとします。自分が王であり続けるためです。ヘロデは、王という自分の立場を守るために、幼子のイエスさまを殺そうとするのです。
東方の博士の物語、マタイの福音書には、二人の王が出てきます。ヘロデとイエスさまです。そして、マタイの福音書はイエスさまこそが「ユダヤ人の王」であることを証しします。「ユダヤ人の王」とはまことの王という意味です。
マタイの福音書において、「ユダヤ人の王」という言葉は、イエスさまが十字架にかかられるところで、改めてクローズアップされます。「ユダヤ人の王」としてお生まれになったイエスさまは、「ユダヤ人の王」として十字架にかかられました。
「ユダヤ人の王」は、自分の立場を守るために、人を傷つけることをなさいませんでした。反対に、人を生かすために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。イエスさまは、私たちが罪を赦されて新しく生きるために、私たちの罪を背負って十字架にかかられたのです。だからこそ、イエスさまは、時代と場所を越えて、ご自分を信じて受け入れるすべての人に、いのちを与えるまことの王なのです。
ヘロデは王という自分の立場を守ろうとしました。私たちも自分の立場を守ろうとすることがあります。
立場というのは、その人を立たせるところです。言ってみれば、拠りどころです。ヘロデにとっては、王であることが自分の拠りどころでした。
さまざまな立場があります。大切でない立場はありません。しかし、立場が私たちを生かすのではありません。立場が私たちにいのちや生きる意味を与えるのではありません。
私たちにいのちや生きる意味を与えるのはまことの王です。まことの王が私たちにいのちや生きる意味を与えてくださるのです。そして、まことの王からいただいたいのちによって、私たちは、それぞれに与えられた立場において、誠実に生きるのです。
礼拝するために
幼子のイエスさまがいる家に辿り着いた博士たちは、イエスさまを見ると、ひれ伏して礼拝しました。イエスさまがまことの王であることを知らされながらも、礼拝しようとしなかったヘロデやエルサレムの人々とは違って、博士たちはイエスさまを礼拝しました。それはイエスさまをまことの王として受け入れることでした。博士たちは、まことの王であるイエスさまを、自分の王としてお迎えしたのです。
礼拝とは、まことの王であるイエスさまを、自分の心の中心にお迎えすることです。自分が自分の王であることを止めて、自分自身を王である神さまにお委ねすることです。王である神さまのご支配を受け入れて生きることです。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。この言葉を聞いたヘロデは動揺しました。王という自分の立場が脅かされることを感じたからです。しかし、イエスさまを礼拝した博士たちは喜びました。この上もなく喜びました。王という自分の立場を守ろうとしたヘロデではなく、自分が自分の王であることを止めて、イエスさまを自分の王としてお迎えした博士たちこそが、喜びに満たされたのです。それは、決して揺らぐことのない、確かな喜びでした。
自分が自分の王であることにこだわるなら、私たちはヘロデと同じです。自分の立場、自分の何かを脅かすものが現れるたびに、私たちは動揺します。自分を守るために、相手を傷つけたりもします。しかし、そんな私たちをイエスさまは招いていてくださいます。礼拝へと招いていてくださいます。私たちがまことの王であるイエスさまご自身に導かれながら、安心して確かな喜びに満たされて生きるためです。
祈り
私たちにいのちを与えるために、まことの王として、十字架への道を歩んでくださったイエスさま、そのご降誕をともに喜ぶ時が与えられて感謝します。イエスさまをまことの王として、自分の王として、心の中心にお迎えしながら、イエスさまに導かれて歩むことのできる喜びに満たしてください。新しく始まった一週間の歩みも祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。