説教音声・要旨 2025年11月23日(日)

  • 日時:2025年11月23日(日)10時
  • 聖書箇所:第一コリント8章7~13節
  • 説教題:信仰の友への配慮

暗唱聖句

この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。

第一コリント8章11節b

説教要旨

キリストはすべての人のために十字架で死なれた

偶像は実際には存在しないものなので、偶像に献げられた肉を食べなくても損にならないし、食べても得になりません。しかしそういう知識を持っている者ばかりが教会に集っているのではありません。「ある人たち」(7)はイエスさまを信じる前に長く偶像になじんできたので、イエスさまを信じることによって「偶像など存在しない」といった知識を学んでも、どこか偶像に関する考えが沁(し)みついています。教会には、偶像は実際には存在しないという知識を持っている者も、偶像には何らかの力があるという考えが沁みついている者もともに集っています。

偶像は実際には存在しないという知識のある者は、偶像の行事に招かれても自由に食卓に着くことができるでしょう。しかしその姿を、偶像には何らかの力があるという考えが沁みついている人が見た時、どういう風に考えるだろうか。偶像に何らかの力があると思いつつ偶像に献げられた肉を食べるようになってしまうのではないだろうか。それは偶像に献げられた肉を食べることによって得になる、あるいは食べないとするならば損になると思うことになるのではないか。それは偶像の虜(とりこ)になることではないだろうか。パウロはそう語るのだと思います。

イエスさまを信じて救われ偶像から解放されたにかかわらず、再び偶像の虜になってしまうならば、それは救われた喜びを失ってしまうことです。偶像は実際には存在しないという知識による私の自由な振る舞いが、兄弟姉妹を滅びに向かわせてしまうならば大変なことです。その兄弟姉妹のためにも、キリストは死んでくださったのです。キリストが死んでくださったほどの存在を滅びに向かわせてしまうことになります。キリストが死んでくださったほどの人を軽々しく扱うとすれば、キリストの十字架を軽んじることでもあります。兄弟姉妹たちに対して罪を犯し、その弱い良心を傷つけるならば、それはキリストに対して罪を犯していることです。

イエスさまは、すべての人のために十字架につかれました。キリスト者は神さまのその真実な愛を受け入れた者たちです。キリストは私のために十字架につかれ死んでくださいました。それとともに私とは考え方の違う兄弟姉妹のためにもキリストは死んでくださったのです。さらにはその神さまのご真実な愛をいまだ信じていない、受け入れていない人のためにも、イエスさまは十字架につかれ死んでくださったのです。私たちはそのイエスさまのご真実を信じています。

真の自由に生きるキリスト者は自分の自由を捨てる

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません」(13)

パウロは、もし私の知識による自由が、兄弟姉妹をつまずかせる、すなわち滅びに向かわせてしまうとするならば、今後一切偶像に献げられた肉は口にしない、偶像に献げられた肉は食べない、と言いました。兄弟姉妹がつまずかないために、すなわち兄弟姉妹の救いのために、自分の自由が問題となっているならば、喜んでその自由を捨てる、というのです。ここに真実の愛と自由に生きるキリスト者の姿があります。まことの自由に生きるキリスト者は、喜んで不自由の中に生きることを選択するのです。この不自由を選び取ることの出来る自由こそ、神さまを真実に信じる者がいただいたまことの自由です。

異邦人宣教の先駆けとしてパウロは積極的に異邦人の地へ、そして未信者の多く住まう地へ出て行きました。宣教とは、イエスさまの教えを伝えることですが、それはイエスさまご自身を宣べ伝えることです。イエスさまはまことの愛そのものですから、イエスさまを宣べ伝えるということは、まことの愛を宣べ伝えることです。まことの愛を宣べ伝えることは、すなわち愛すること、そのものです。宣教とは、愛すること、なのです。

外に向かって愛を宣べ伝えるならば、それを宣べ伝える教会自体が愛に満ちたところであるはずです。部屋を暖めるためのストーブは、まずストーブ自体が暖められていなければなりません。同じように、愛を宣べ伝える教会自体がまず愛に満たされていないならば、宣教が前進するはずがありません。教会は、神さまの愛をいただくところですが、それは罪びとである私が愛に生きる者として造りかえられるところでもあるのです。教会生活を通して、礼拝生活を通して私たちは愛する者として造りかえられるために、聖書を学び、聖餐に与(あずか)ります。

教会において、その兄弟姉妹の祝福のために「私は今後、決して肉は食べない」という全き自由をもって不自由を選び取るパウロを、神さまは、世界に向かっての愛の宣教に用いられました。まことの愛と自由、喜びと慰めに生きるために、私たちもパウロのように全き自由を傾けて不自由を選び取る者に造りかえられたいと思います。

祈り

すべての人のためにあなたが十字架にかかり、その尊いいのちをささげてくださいました。十字架は私のためにいのちをささげてくださった神さまの愛です。その愛が、兄弟姉妹のためにも注がれていることを見失うことがないように守ってください。兄弟姉妹の救いのために、愛の前進のために、必要であれば、自らの自由を捨てることのできるまことの自由に生きることができるように助けてください。

説教20251123-01
説教20251123-02


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