- 日時:2025年11月9日(日)
- 聖書箇所:第一コリント8章1~6節
- 説教題:神に知られている
暗唱聖句
しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。
第一コリント8章3節
説教音声
説教要旨
神を信じるということは、神に知られているということを信じること
「次に、偶像に献げた肉についてですが」(1)
コリントの町には大きな偶像の神殿があり、動物のいけにえが献げられていました。献げられた動物の肉の多くは町の市場に流通しました。人びとはその肉を購入し日々の食材としました。キリスト者となった者はその偶像に献げられた肉を食べてよいのだろうか、それとも食べてはいけないのだろうか。そういう問いがパウロに届いたのだと思います。
「『私たちはみな知識を持っている』ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです」(1,2)
偶像に献げた肉を食べてもよいかどうかを語るにあたり、まず信仰に生きる者が何かを判断するときの原則を語ります。「知識」とはこの場合、ギリシャの文化の中で考えられていた人間を自由にする力をもったものでした。
おそらく自分には知識がある、と思っていた人たちは、偶像に献げられた肉を食しても何の影響もない、と自由に食していたのだと思います。しかしそれを見てどこか気になって仕方がない人たちもいました。その両者の間に少なからず緊張関係が生まれ教会に混乱が起こりました。
私たちはみな知識を持っています。その知識に従って判断をしている。しかしその判断を生んだ知識が、だれかを悲しませているとしたら、そのような知識はほんとうの知識といえるのだろうか。キリストを信じる者は、愛によって生きる者なのではないか。知識は結局は自己中心を満足させるものでしかない。愛こそ、人を建て上げるものであり、また教会を建て上げ前進させるものである。信仰に生きる者は、自己中心を満足させるような知識ではなく、愛によって判断をするのだ。パウロはそう語るのだと思います。
自分こそ知識がある、他の人よりも何かを知っていると主張するならば、それは、知るべきほどのことをいまだ知らないのです。知識には知られ方というものがあります。他の人よりも自分こそ知識があるという知り方の知識は、不完全なのです。
「しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています」(3)
知る、ということがここで愛するという言葉に変わりました。本当の知識は、愛するということにおいて真の知識となります。信仰の知識とは、神さまを愛することです。神さまを愛するということは、その神さまが天と地を造りいまもその全能をもってすべてを支えておられるお方であるならば、それは神さまに知られているということなのです。
信仰とは、私が神さまを知るということ以上に、神さまに知られているということを知ることです。
キリスト者は唯一まことの神のみを信じているので、偶像をいっさい恐れない
「さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、『世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない』ことを私たちは知っています」(4)
信仰の基本的な考え方を確認し、ようやく偶像に献げた肉について話し始めます。そこであらためて偶像とはいったい何であるのかを語ります。聖書は「世の偶像は実際には存在しない」「唯一の神以外には神は存在しない」と語ります。キリスト者はそのことを知っています。
「というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです」(5、6)
確かにこの世には、多くの神々、多くの主と呼ばれるものが存在しています。しかしそれらはそう言われているだけで実際には存在しないのです。偶像は存在しないものですから、唯一まことの神さまを信じたキリスト者は一切の偶像を恐れません。それらが何らかの影響を世界や自分に与えることがないことを知っています。かかわったら罰が当たるとか、呪いがやってくるとか、ということは一切ありません。
この世にはたくさんの偶像がありますが、最大の偶像は自分自身です。偶像を神としない私たちは、自分自身を神としません。人間は、人間として健やかに生きていくことができるようになりました。唯一まことの神さまを信じる者は、人間らしく自分自身を生きていきます。
すべてのものは神から発し神に至る、そしてすべてのものは主によって存在している
すべてのものは、唯一まことの神さまから発している。そしてこの神さまに至る、帰って行くのです。また、すべてのものは、唯一の主なるイエス・キリストによって存在しているのです。
すべてのものは神さまの御手の中にあり、イエスさまによって存在しているので、私たちはすべてのものを安心して受け止め、安心して神さまの御手に委ねます。すべてのものは恐れるもの、判断しコントロールするもの、戦うものではなくなりました。すべてのものは、神さまの御手の中にあって、ともに生きるもの、支え合い、励まし合い、愛すべきものとなったのです。すべてのものは、主の十字架の贖いによって新しくされ、復活のいのちによって生かされています。
祈り
あなたの御手の中にあることを感謝します。私をとりまくすべてのものもあなたの御手の中にあり、十字架と復活のあがない、永遠のいのちに包まれたものであることを知らされました。ともに生かされていることを喜び感謝するものとしてください。

