- 日時:2025年10月26日(日)
- 聖書箇所:第一コリント7章17~24節
- 説教題:神の御前にいる
暗唱聖句
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。
第一コリント7章23節
説教音声
説教要旨
神に召されたままの自分を受け入れる
「結婚について」書かれている中に、唐突に「割礼」と「奴隷」が登場しました。パウロとしては信仰の生き方を伝えたかったので、結婚についてのルールを伝えようとしているといった誤解を避けようとしたのだと思います。結婚においても、割礼の有無においても、そして奴隷か自由人かということにおいても、神さまが召してくださったそのままの状態で歩みなさい、とパウロは語ります。「私はすべての教会に、そのように命じています」。どのような教会であっても、どのような立場、身分の人びとが集まっている教会であっても、これは共通した考え方であるとパウロは語ります。
「割礼」は創世記17章に登場します。神さまは、アブラハムに代々にわたり守るべきこととして割礼を命じられました。割礼を受けていない者は、ユダヤの民から断ち切られなければならない、といった厳しい教えでした。アブラハムは「カルデヤのウル」(創世記11章27節以降、現在のイラク)の出身です。しかし神さまの御声に従って故郷を出発し、カナンの地(現在のパレスチナ)に住むようになります。神さまはそのアブラハムに、アブラハムをはじめ家族、「しもべ」「異国人から金で買い取られた、あなた(アブラハム)の子孫ではない者」(創世記17章12節)までも割礼を受けるようにと命じられたのです。こうしてのちにユダヤ人と呼ばれる共同体が生まれます。ユダヤ人とは血統による民族ではなく信仰共同体でした。割礼はこの「ユダヤ人」という信仰共同体のしるしなのです。
初代教会はユダヤ人から始まりましたから、男性はみな割礼を受けていました。しかし異邦人が救われ始めると、教会は割礼を受けた者と無割礼の者が混在するようになりました。救われるために割礼が必要であるかどうかは教会全体の議論となりました。使徒の働き15章ではこのための会議が行われています。
割礼を大切に考える者たちは、救いは旧約聖書からつながることですから、イエスさまを信じるだけではなく割礼を受けることが必要だと主張しました。割礼を受けていない者たちは、そのことが気になってしかたがない。やはり割礼を受けていないと何か足りないような、あるいは少し劣っているような気持になる。教会の中で、階級めいたもの、分断が生まれてしまいました。
パウロは、割礼であるとか無割礼であるとか、そういったことはいっさい取るに足りないことである。だからそれぞれそのままでいなさい、といいました(18節、19節)。
また初代の教会には奴隷と自由人(奴隷でない人たち)が混在していました。両者の間には現代に生きる私たちには想像できないような格差があったのだと思います。しかし教会に一歩入ったならば、その身分の違いは一切なくなるはずです。奴隷が聖書の教師になって、自由人を教え指導するということもあったでしょう。お互いに気兼ねをしたり、この時とばかりに自由に振舞ったりと、緊張の走る場面も生まれたのだと思います。
パウロは、奴隷であることを気にしてはいけない、と語りました。21節の後半は新改訳では「もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう」とあり、自由人になることをすすめているように読めますが、他の訳では「自由の身になれるとしても、そのままでいなさい」(共同訳2018)とあります。文脈から考えるとパウロの言いたかったことは、とにかく、今の自分自身の在り方のままでいなさい、ということです。
イエスさまを信じた、ということは、今のこの自分自身が神さまに愛されている、ということを受け入れた、ということです。自分自身を受け入れる、受容する、という生き方に変えられた、ということなのです。今の自分自身の在り方のままで何の気兼ねもなく胸を張っていればよい、ということです。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません」(23)。
本来罪人でしかなかった私たちを、神さまは神のいのちが払われるほどに価値ある者である、としてくださいました。私たちは互いにさまざまな違いを持っています。その違いを持ったありのままの自分を受容するとき、人と比べて劣等感を持ったり優越感に浸ったりすることから解き放たれます。この自由をいただいてはじめて自らの罪と闘うことができるようになります。また自分とは違う個性を持った他者とともに生きる道が開かれます。
神の御前にいる
「人間の奴隷となってはいけません」(23)。この場合「人間」とは、他者のことでもあり、また自分自身のことでもあります。「私は誰の奴隷でもない」といって、自分の思うままに好き勝手に生きている、というのではそれは「自分の奴隷」になっていることです。決して幸福な生き方とはいえません。
「主にあって召された奴隷は、主に属する自由人である」(22)。奴隷であるということを気にすることはない、主にあって召されたということは、生と死を左右することのできるお方を主人としたことであるから、まったき自由の中にあるのです。
「同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷」(22)である。自由人は社会において、自分の思うままに生きてきたかもしれない、しかしイエスさまを信じたということは、新しく主人をいただいたことである。私は自由だといってやりたい放題に生きることから解放されたのだ、イエスさまを主として、人々にお仕えする人生へと移し替えられたのです。それが本当の自由な生き方です。
「重要なのは神の命令を守ることです」(19)。「神の御前にいなさい」(24)。
大切なことは、神さまの御前にあることであり、神さまの命令、すなわち神さまのみこころに生きることです。自分の願望や欲望が生み出す劣等感や優越感から自由にされ、イエスさまを主とし、そのお心を第一に歩む。自分自身の奴隷から解放され、新しく主に仕え、隣人を愛する者として生きる。神さまの御前にとどまるとき、私たちは真実に自分を愛し、隣人に仕えるまことの自由人として生きることができるのです。
祈り
あなたの御前にとどまる者としてください。そうして新しくあなたが与えてくださった自分自身の価値に気づかせてください。あなたを主と仰ぎ仕える者としてください。隣人へあなたの愛を届ける者として遣わしてください。

