主日礼拝説教:2025年10月5日(日)
聖書箇所:出エジプト記15章22~27節
説教題:主はあなたを癒やされる方
暗唱聖句
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
イザヤ書53章5節
説教音声
説教要旨
荒野を歩いて
葦の海を出発したイスラエルの民は荒野を歩きました。三日間も水を見つけることができませんでした。「マラ」というところでようやく見つけた水は苦くて飲むことができませんでした。
「われわれは何を飲んだらよいのか」、イスラエルの民から問いただされたモーセは主に向かって叫びます。主は一本の木を示してくださいました。モーセがその木を水の中に投げ込むと、水は甘くなりました。
イスラエルの民は荒野を進みました。水を見つけることも大変な荒野を、わざわざ進んでいたのです。そして、その荒野へとイスラエルの民を導かれたのは、神さまご自身でした。
荒野において、イスラエルの民に求められていたのは、上手に水を見つけることではありませんでした。苦くて飲めない水を甘くて飲める水に変えることでもありませんでした。神さまを信頼することでした。自分たちを荒野に導かれた神さまは、荒野においても自分たちを生かしてくださる、その神さまを信頼するのです。水のないところで水を与えてくださる、苦くて飲めない水を飲める水に変えてくださる、その神さまに支えられて生きるのです。
現在の私たちも荒野のようなところを通ることがあります。信仰者も同じです。信仰者だからこそ、荒野を通らなければならないこともあります。しかし、神さまは、その荒野においても、私たちの神さまでいてくださいます。私たちの必要のいっさいを満たしてくださいます。神さまの愛は決して変わることがないからです。
わたしは主、あなたを癒やす者
苦い水が甘い水に変わった出来事の後、神さまはモーセに掟と定めを授けられました。その掟と定めによって、モーセを試みられました。試みるとはテストをすることです。それは「あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守る」ことです。そして、主の御声に聞き従わず、主の目にかなうことを行わず、主の命令に耳を傾けず、主の掟をことごとく守らないならば、「わたしがエジプトで下したような病気」が下ることになります。
何も書かれていませんが、モーセはとても緊張したのではないかと想像します。恐れおののいたかも知れません。そんなモーセのことを心配してかどうかは分かりませんが、神さまはテストの理由を説明してくださいました。「わたしは主、あなたを癒やす者だからである」。
神さまのテストの目的は、モーセとイスラエルの民を癒やすことにありました。そして、その癒やしというのは、ただ単に、病気やケガが治ることではありません。喉の渇きが潤されることでもありません。神さまの癒やしは、神さまとの健全な交わりが回復するところで実現していくものです。神さまを神さまとして恐れ、神さまの愛に満たされ、神さまに支えられて生きる、その神さまとの健全な交わりの中で、私たちはまことの癒やしを経験していくのです。それは、私たちが罪の支配から解放され、罪によって損なわれた私たち本来の姿が回復していくことです。そして、それを成し遂げてくださるのは神さまご自身です。
イスラエルの民が癒されるのは、テストをクリアすることによってではありませんでした。そもそもがクリアすることのできるテストではなかったのです。イスラエルの民がテストによって知らなければならなかったのは、自分たちもまた、神さまの癒やしを必要とする罪人の群れであることでした。そして、彼らに求められていたのは、そんな罪人の自分たちを諦めることなく導いていてくださる神さまの愛を受け取り続けていくことでした。神さまは、イスラエルの民が、ご自分の愛によって癒やされることを願っていてくださったのです。
ケガや病気が癒されるためには、病院に行かなければなりません。落ち込んだ気分が癒されるためには、気分転換をすることによって可能であるかも知れません。しかし、罪によって傷ついた私たちの存在そのものを癒やすことができるのは、神さまだけです。罪人の私たちを根本的に癒やすのは、神さまでなければできないことなのです。なぜなら、私たちは神さまに愛されて造られた者だからです。
神さまはかけがえのない御子イエス・キリストの十字架の死と復活のみわざを成し遂げてくださいました。私たちが、罪を赦されて、神さまとともに新しく生きるためです。神さまとの交わりの中で、私たちが癒されるためです。
神さまはいつも私たちの帰りを待っていてくださいます。
祈り
癒やしを必要とする罪人の私たちです。そして、私たちを癒やすことができるのは神さまだけです。新しく始まる一週間の歩みにおいても、御子イエスさまの十字架の愛によって癒やされていく私たちであらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

