主日礼拝説教:2025年9月21日(日)
聖書箇所:出エジプト記15章1~18節
説教題:主に向かって私は歌おう
暗唱聖句
そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。
主に向かって私は歌おう。
主はご威光を極みまで現され、
馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。
出エジプト記15章1節
説教音声
説教要旨
主に向かって私は歌おう
海の真ん中を通って、神さまの救いを経験したモーセとイスラエルの民は、主に向かって歌を歌いました。神さまをほめたたえる賛美の歌です。
モーセとイスラエルの民の賛美は「主に向かって私は歌おう」という言葉で始まります。「私たちは歌おう」ではありません。「私は歌おう」です。その後も、「主は私の力」、「主は私の救いとなられた」、「私の父の神」という言い方が続きます。どれも「私たちの」と言ってもよさそうな感じがします。しかし、モーセとイスラエルの民は、「私は」、「私の」と歌い始めたのです。
「主に向かって私は歌おう」、モーセとイスラエルの民がそのように歌い始めたのは、一人ひとりが神さまの救いを経験して喜んでいることを示しています。みんな神さまの救いを喜んでいるけれど、自分はよく分からなかった、でも、みんなに合わせて歌っておこう、そういうことではありません。神さまが自分たちを救ってくださった、そして、この自分を救ってくださった、一人ひとりがその救いの恵みを喜んでいるのです。だからこそ、彼らは「私は」という言葉で賛美を始めたのです。
信仰というのは個人的な側面のあるものです。私が信じなければならないものです。誰かに頼んで、代わりに信じてもらうことができるものではありません。私が信じなければならないのです。私が信じる、そこに意味があるのです。
神さまは私たち一人ひとりに信仰を求めておられます。神さまは、私たち一人ひとりと互いに向き合い、私たち一人ひとりとの交わりを求めていてくださるからです。神さまは、私たち一人ひとりが、ご自分の救いを味わって喜ぶことを願っていてくださるのです。そして、このことは、神さまが私たち一人ひとりをとても大切にしていてくださることの証しでもあるように思います。
あなたが贖われたこの民を
モーセとイスラエルの民は、「主に向かって私は歌おう」という言葉で賛美を始めました。しかし、彼らは単純に自分の個人的な救いを歌っているのではありません。賛美の後半では、自分たちのことを「あなたが贖われたこの民」と表現しています。他にも「あなたの民」、「あなたが買い取られた民」という言い方がされています。いずれの言葉も、ファラオの奴隷だったイスラエルの民が神さまのものとされたことを意味しています。そして、贖われて神さまのものとされたのは「民」です。「私」ではありません。彼らは自分たちが一つの民として贖われたことを歌っているのです。神さまのものとされた一つの民であることを告白しているのです。そして、だからこそ、彼らは一緒に賛美しました。別々に賛美したのではありません。自分たちが神さまに贖われた一つの民であることを覚えながら、自分もその民の中に加えられていることを覚えながら、一緒に賛美をしたのです。
私たちは、個人的にイエスさまとお出会いして、イエスさまを自分の救い主として信じ告白することが求められています。そのような意味において、信仰には個人的な側面があります。しかし、信仰生活は一人でするものではありません。なぜなら、私たちがイエスさまを信じて救われたのは、神さまの民として教会に加えられたことだからです。イエスさまを信じて救われた私たちは、神さまの民として教会に加えられたのです。だからこそ、私たちは、教会として、集まって礼拝することを大切にするのです。
教会にはいろいろな人が集まってきます。そして、いろいろな人が一緒に集まるのは、決して簡単なことではありません。奇跡です。それでも、私たちが集まることを大切にするのは、神さまが私たちを呼び集めてくださったからです。私たちが選んだのではありません。神さまが私たちをご自分の民の中に加えてくださったのです。神さまが私たちを呼び集めてくださったからこそ、その神さまを信じるからこそ、私たちは、神さまから愛されているお互いを大切にしながら、一緒に集まって礼拝するのです。
「主に向かって私は歌おう」。私たちも、一人ひとりがいつも新しく信仰をいただいて、一緒に賛美をさせていただきたいと思います。
祈り
「主に向かって私は歌おう」、私たち一人ひとりが、イエスさまの救いを喜びながら、神さまの民に加えられている恵みを覚えながら、一緒に賛美を続けていくことができますように。新しい一週間の歩みも祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

