旧約聖書の時代、イスラエルの民はいけにえを献げることによって神さまを礼拝しました。神さまがいけにえを必要としておられたのではありません。罪人が神さまの御前に出るためには、いけにえが必要だったのです。いけにえを献げることは、自分の罪を覚えながら、その罪が赦されている恵みを味わうことでした。だからこそ、それは「感謝のいけにえ」であるはずでした。
しかし、イスラエルの民の間には、いけにえを献げることがあっても、神さまに感謝することがありませんでした。イスラエルの民は、いけにえを献げながらも、神さまとの交わりを失っていたのです。
ある先生が著書の中で小さな息子さんとのエピソードを紹介しておられました。旅先から帰って来ると、出迎えてくれた息子さんが飛びついて来ます。そして、お父さんの腕に抱かれながら言うのです。「いいなあ、ぼくは」。父親である先生は、喜ぶ息子さんの顔を見ながら、疲れがスーッと抜けたそうです。
神さまは御子イエス・キリストを完全ないけにとして献げてくださいました。私たちが、神さまの御前に出るためであり、神さまに支えられて、神さまとともに生きるためです。神さまは御子のいのちを献げるげてくださるほどに、私たちを愛していてくださるのです。
「いいなあ、ぼくは」、神さまに愛されている恵みを覚えながら、私たちも同じように告白することができればと思いました。
感謝のいけにえを神に献げよ。(詩篇50編14節)