説教音声・要旨 2025年08月24日(日)

  • 日時:2025年08月24日10時
  • 聖書箇所:第一コリント6章12~14節
  • 説教題:まことの自由を与える信仰

暗唱聖句

神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。

第一コリント6章14節

説教音声

説教要旨

私は自由だろうか

「すべてのことが私には許されている」と言うけれども、すべてのことが益となるわけではない、とパウロは語ります。この括弧に入れられている言葉はコリントの教会でよく語られていた言葉だったのかもしれません(10・23)。すべてのことが許されている、何をしても自由なのだ、と語られている。確かに、信仰をいただいたということが、私たちを自由にする、ということは真理だと思います(ガラテヤ5・1、13)。
キリスト者は、主の十字架と復活によってそれまでの罪や因習に縛られた生活から解放され自由にされました。イエスさまを信じる者は、まことの神さまがともにいてくださいます。

しかしだからと言って、すべてのことが益となる、すなわち私たちの人生に役立つものとなるわけではない、とパウロは語ります。私たちの願う自由の中には、私たちの人生を困ったことにしてしまうものも含まれている。自由だからと言って何をしていても祝福された生活が築かれるかと言えばそうではない、と語るのです。

また「すべてのことは私には許されている」と言うけれども、私はどんなことにも支配されはしない、とパウロは語ります。私たちの願う自由の中には、私たちに役立たないだけでなく、私たちを縛ってしまうものもある。私たちの願う自由に、かえって支配されてしまうということが起こる。自分の願望や欲望の奴隷になってしまうならば、それはキリスト者の自由とは全く違うものなのではないか、というのです。

「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言うけれども、神さまはその両方を滅ぼしてしまわれる。食べることも大事だけれども、結局それらは私たちにとって永遠のことではない。

私たちは果たして本当の自由の中に生きているのでしょうか。

復活の主とともに生きる者は「からだ」を大切にする

「からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。」(13)

罪によって神さまから遠く離れた者であった私たちは、主イエスさまの十字架と復活によって罪の奴隷から買い戻され解放され自由にされました。それは、神さまによって神さまのものに再びしていただいたということです。私の心、魂、そして「からだ」、そのすべてが神さまのものとされたのです。この神さまによって神さまのものとされた私の「からだ」は、淫らな行いのためにあるのではありません。主のためにあるのです。また主ご自身も、この買い戻された私の「からだ」のためにおられます。

この買い戻された私の「からだ」を、主のために生きることによって、私はまことの自由の中に生きることができます。

主のために生きるとは、神さまとの関係において「からだ」を正しく用いることです。こうして自分の願望や欲望から解放されて、神さまの喜んでくださること、神さまの御心の中に生きることこそ、私たちが真実に自由に生きることなのです。

「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。」(6章14節)

神さまは、十字架にかかり死なれた主イエスさまをよみがえらせました。イエスさまが自らの力で復活されたというのではありません。イエスさまの死は、完全な死でした。そのイエスさまを、父なる神さまはよみがえらせたのです。復活によって、十字架のみわざが、神さまのみこころであったことが明らかにされました。またこの復活は、いわゆる霊的なことというのではなく、「からだの復活」である、と聖書は語ります。そのよみがえりに、主を信じた私たちもあずからせてくださると語ります。私たちも復活するのです。もはや死は終わりではなくなりました。また決定的なものでなくなりました。

復活の信仰に生きる、私たちはこの自分のからだが主の復活と結びつけられたことを信じています。復活するのだからと、いい加減に生きても構わないとは思いません。私のからだが、神さまのものになったのです。主のものとしていただいたこの「からだ」なのですから、もはや私の好き勝手に生きるわけにはいきません。主にある者は淫らな行いに生きることが出来ないはずなのです。

「淫ら」(13)ということばは、不品行とも訳され、性生活における不義のことです。神さまは人間をお造りになられたときに、性生活における喜びを備えてくださいました。別人格の者がお互いを尊重し愛することにおいて、子を産み、世界をよく管理するようにとしてくださったのです。その喜びと祝福のためには、淫らでないこと、すなわち神さまの秩序によることが求められます。その秩序とは、主にあって互いに相手を尊重し愛する、という秩序です。その愛が真実なものでなければならない、とされたのです。

食物を腹のために食べること(13)においての自由は、そう大した問題でないかもしれません。しかし性生活の乱れはさまざまな問題を生み出します。私たちは、主に贖っていただいた「からだ」を大切に生きたいと思います。主のみこころを求めて生きるところにこそ、自分自身を大切に生きる道があり、そこにこそまことの自由があるのです。

祈り

私たちのからだは、主の十字架と復活において贖っていただきました。あなたによって贖われた自分自身を大切にするために、あなたのみこころを求めることができますように。そこにこそまことの自由があることを教えてください。みだらに生きることがないように守ってください。復活の主を見上げつつ、復活の信仰にふさわしく歩むことが出来るように助けてください。

説教20250824-01
説教20250824-02


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