主日礼拝説教:2025年8月17日(日)
聖書箇所:出エジプト記13章17~22節
説教題:雲の柱と火の柱
暗唱聖句
主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
出エジプト記13章21節
説教要旨
近道はない
エジプトからカナンの地へ行くには「ペリシテ人の地への道」が最も近道でした。しかし、神さまはその近道にイスラエルの民を導かれませんでした。「ペリシテ人の地への道」では戦いが予想されたからです。戦いに慣れていないイスラエルの民のことを考えて、神さまは彼らを荒野の道へと導かれたのです。
神さまにとって、イスラエルの民が早くカナンの地に到着することは、あまり意味がなかったかのようです。それよりも神さまが大切に考えられたのは、イスラエルの民が確実にカナンの地に到着することでした。そして、そのカナンの地を目指す旅路そのものを、神さまは大切に考えられたのだと思います。
近道を嫌う人はあまりいないと思います。それは道路上の近道に限りません。上達の近道などと言われると、つい知りたくなってしまいます。そして、近道を行くのは決して悪いことばかりではありません。必要な場合もあります。近道を行くことで、余計な苦労をしなくても済むことがあります。近道を行くことがより多くの成果につながるかも知れません。ただ、そのような近道の利点というのは、信仰生活とはあまり関係がないように思います。
信仰生活とは、神さまとともに歩むことそのものです。神さまとともに歩むことが私たちの信仰生活です。そして、そのような信仰生活には近道というものがありません。近道を通って早く成長して、たくさんのことを成し遂げなければならないようなことはありません。神さまとともに歩む一歩一歩に意味があるのです。そして、その信仰生活の先に、神さまは天の故郷を備えていてくださいます。神さまは私たちを確実に天の故郷へと導いてくださいます。
雲の柱と火の柱は離れない
イスラエルの民は荒野の道へと導かれていきました。荒野の道というのは、道なき道を行くようなものです。イスラエルの民が知らない道です。
神さまに導かれて歩む道は、いつも初めて通る道です。自分の知っている道を行くのではありません。信仰生活とは自分の知らない道を行くことです。行き先を知らないままに出発したアブラハムと同じです。いつも初めて通る道を行くのです。しかし、その道を神さまが導いていてくださいます。そして、導いていてくださる神さまはすべてを知っていてくださいます。
神さまは雲の柱と火の柱によってイスラエルの民を導かれました。雲の柱や火の柱は、神さまの臨在のしるし、神さまがそこにいてくださることのしるしです。イスラエルの民は、雲の柱と火の柱の中におられる神さまに導かれながら、荒野の中を進みました。
現在の私たちは目の前に雲の柱や火の柱を見ることがありません。神さまは、現在の私たちに対しては、みことばと聖霊によって導いていてくださいます。私たちは、聖霊によって心が開かれて、みことばを学びながら、神さまのみこころを求めて生きるのです。
とは言っても、人生の様々な場面で、どう決断し行動すべきかを、神さまから事細かに教わることができるばかりではありません。今日は傘を持って行きなさい、どこの誰と出会いなさい、どの会社に入りなさい、熱心に聖書を読んで神さまのみこころを祈り求めたからと言って、そのような声が聞こえてくるのではありません。実際には、神さまのみこころに従って生きることを願いながらも、みこころが分からなくて悩んだり、自分の決断や選択を後悔したりしながら生きている、それが私たちの信仰生活です。
雲の柱と火の柱はイスラエルの民の前から離れることがありませんでした。同じように神さまは私たちから離れて行かれることがありません。みこころが分からなくて悩み、自分の決断や選択を後悔しながら生きる、そんな私たちを神さまは導いていてくださいます。私たちが間違ったと思っても、失敗したと思っても、神さまは私たちとともにいてくださるのです。みことばを通して教えられるのは、どんな時にもともにいてくださる神さまの愛です。
みことばそのものである主イエスさまは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。他に道があるのではありません。イエスさまご自身が、神さまご自身が、私たちの道です。みことばを通して、神さまから愛されていることを覚えながら、私たちも神さまを愛して、神さまのみこころを求めて、神さまとともに歩む、それが私たちの信仰生活です。神さまは責任を持って私たちの歩みを導いてくださいます。
祈り
いつもすべてをご存知の神さまに導かれて生きることのできる幸いを覚えて感謝します。新しい一週間も、聖霊に助けられながら、みことばを通して、神さまに導かれて歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。