説教要旨 2025年8月10日(日)

  • 日時:2025年08月10日(日)
  • 聖書箇所:第一コリント6章8~11節
  • 説教題:洗われ、聖なる者とされ、義と認められた

暗唱聖句

あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

第一コリント6章11節

説教要旨

コリント教会の信徒は神の国を相続できるのか、それともできないのか

コリントの教会には、イエスさまを信じ悔い改めてもなお淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者がいました。そのような正しくない者、罪の中にある者は、神の国を相続できないとパウロは語ります。

しかしその同じコリントの教会に信徒に向かって、あなたがたは、すでに主イエスさまの御名と聖霊の働きによって、洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのだ、と語りかけます。つまり神の国を相続する者なのだ、というのです。

いったい神の国を相続できないのか、それともできるのか。どちらなのでしょう。

神の国を相続するとは

神の国とは死後の天国のことですが、もう一つ「神さまが支配する」という大切な意味を持っています。神の国を相続するとは、神さまが支配される世界、神さまが主人となり王となってくださる中に与えられる平安の中を歩むことです。それは死後のことではなく、今の時のことです。そのような平安な人生は、自分の功績によって勝ち取るものではなく、「相続する」ことによって与えられます。ただ神さまの「子」とされたその立場ゆえに転がり込んでくるものなのです。救われる、ということは、神の子とされ、神さまのご支配くださる平安の中に生きていくことであり、そしてそれが一方的な恵みによって与えられることです。

正しくない者は神の国を相続できない

正しくない者はこの神さまの御国を相続することが出来ません。

正しくない者とは、神さまとの関係において正しくない者のことです。神さまとの関係が正しくないので、罪を犯したときに、それを神さまによって解決しようとしません。自分が主人となって解決しようとします。解決できたとすると自分もまんざらではないと高慢になり、解決できないと自分はダメだと絶望します。あるいは、どうせ罪びとなんだ、と開き直ります。いずれも救いに与った者の生き方ではありません。神さまとの関係が壊れている限り、そこでは自分が主人であり続けるので、神さまの豊かな愛のご支配の中に生きることができません。

しかし救われた罪びとは神の国を相続できる

罪を犯さない人間は一人もいません。義人はいないのです。しかしイエスさまを信じた者は、イエスさまとの関係が正しくされたので、自らの罪を自分が主人となって解決しようとしないで、新しい主人である神さまに解決していただこうとします。キリスト者とは、罪を犯さない人たちではなく、犯した罪を神さまによって解決しようとする人たちのことです。それが「主イエス・キリストの御名と、私たちの神の御霊」によって「洗われ、聖なる者とされ、義と認められた」キリスト者なのです。

「洗われ」とは洗礼を授けられた者であるということです。「聖なる者とされ」とは神さまのものとされている、ということです。「義と認められた」とは、神さまとの正しい関係の中に置かれている、ということです。キリスト者はすでにそのようにされているのです。

聖書は、罪びとに向かって、洗われて聖なる者となりなさい、義と認められるように精進しなさい、そうでなければ神の国を相続できない、と語っているのではありません。すでに神さまのご支配の中に生かされているのだから、罪を犯した時に、それを自分で解決するのではなく、そこでも神さまが主であることを見失わないで、神さまに解決していただければよい、と語っているのです。もし本当に神さまのご支配の中に生きていることを喜びとしているならば、自分中心で生きようとすることなど思いもよらないことではないか、罪を犯してもなお、神さまの平安の中に生きる道をいただいたのではないか、というのです。

罪びととしてではなく救われた罪びととして生きる

罪を自分で解決しようとしない、神さまに解決していただく。それは「救われた罪びと」として生きることです。それには二つのポイントがあると思います。

自分が罪びとであることを見失わない

まず自らが罪びとであることを見失わないようにしましょう。そのために聖書には罪のリストが幾度となく記されています。罪のリストの正しい読み方は、そこで自分の罪に出会うことです。リストの一つひとつを見て、自分は大丈夫と思うことは正しい読み方とはいえません。私たちはリストの書かれていること以外にもたくさんの罪を数えることが出来るのではないでしょうか。また罪のリストは、誰かを裁くためのものでもありません。裁き主は神さまおひとりだけです。ひたすら自分を見つめるためのリストです。そうして私たちは生涯悔い改めに生き続けるのです。

救われていることを見失わない

その上で、それらの罪がイエスさまの十字架と復活によってすでに解決されていることを信じて感謝しましょう。神の国、神さまの豊かなご支配の中に生かされていることを見失わないでいましょう。罪びととして開き直る醜い生き方から、救われた罪びとして、喜びと感謝に生き続けたいと思います。

祈り

救われた罪びとして生かし続けてくださることを感謝します。そうしてあなたの御国を相続する喜びに生かしてください。この信仰の道は死をも乗り越えて永遠に結びついた道であることを見失うことがないように守ってください。あなたの前に謙遜に生きる者としてください。

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