詩篇46編の詩人は戦いをやめさせることのできる神さまを証ししています。そして、その神さまの言葉を伝えてくれています。「やめよ。知れ。/ わたしこそ神。/ わたしは国々の間であがめられ/ 地の上であがめられる」。
神さまは二つのことを命じておられます。一つ目が「やめよ」、二つ目が「知れ」です。「やめる」ことが「知る」ことにつながります。「知る」ことの内容は神さまこそが神さまであることです。私たちは、「やめる」ことによって、神さまこそが神さまであることを「知る」のです。「やめよ」という言葉は、他の日本語訳聖書では、「静まれ」、「力を捨てよ」などと訳されています。
「やめよ。知れ。/ わたしこそ神」という神さまの言葉を最初に聞いたのは、イスラエルの民だったはずです。彼らは神さまの民でした。神さまを知っているはずの人々でした。そうであるにもかかわらず、「やめよ。知れ。/ わたしこそ神」という言葉を聞かなければならなかったのです。神さまのものとされていたイスラエルの民も、神さまの御前で静まることのできない人々、自分の力を捨てることのできない人々だったのです。イエスさまを通して神さまの民とされている現在の私たちにも当てはまることです。
私たちが置かれている状況は様々です。その様々な状況にある私たち一人ひとりに、神さまは「やめよ。知れ。わたしこそ神」と語りかけていてくださいます。
万軍の主はわれらとともにおられる。(詩篇46編7節)