主日礼拝説教:2025年8月3日(日)
聖書箇所:出エジプト記13章1~16節
説教題:主のものとして生きる
暗唱聖句
イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。
出エジプト記13章2節
説教音声
説教要旨
わたしのものである
神さまはモーセに長子の聖別を命じられました。「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子」を神さまのために聖別するのです。聖別するとは、神さまのものとして区別して献げることです。神さまは聖別された長子のことを「わたしのものである」と言われました。長子は神さまのものでした。そして、長子が神さまのものとして聖別されるのは、長子に続くすべての子どもたちが神さまのものであることを意味しています。イスラエルの民全体が神さまのものだったのです。イスラエルの民は「あなたがたはわたしのものだよ」と語りかけられていたのです。
あなたは誰のものであるのか、聖書は私たちに問いかけてきます。現代人であれば、「私は私のものだ、誰のものでもない」と答えたくなるのではないかと思います。確かにそうです。私は私のものです。私たちは、誰かの人生を生きるのではなく、自分の人生を生きるのです。しかし、自分の人生を生きたい、自分らしく生きたい、そう願いながらも、そのように生きることができない、そこに私たちの悩みや苦しみがあるようにも思います。
実は、私は私のものだと主張するのは、現代人だけではありません。私は私のものだと主張するのは、罪人の本質です。罪というのは、自分が神さまのものであることを否定して、神さま中心にではなくて、自分中心に生きることだからです。
私たちは神さまのものである、聖書はそう語ります。私たちは神さまに造られました。偶然に生まれてきたのではありません。神さまが私たちを愛して造ってくださったのです。そして、その神さまが願っていてくださるのは、私たちが神さまのものとして生きることです。神さまに人生をお委ねして、神さまに支えられ、神さまに導かれて生きることです。
私たち以上に、私たちのことを知っていてくださり、私たちを愛していてくださる神さまです。その神さまのものであることを信じ受け入れるところにおいて、私たちは安心して生きることができるのであり、本当に自分らしい自分の人生は形作られていくのです。
覚えていなさい
神さまが長子の聖別を命じられた背景には、出エジプトという救いのみわざがありました。エジプト中の長子が打たれる中で、イスラエルの民の長子は、過越の子羊の血によって、区別されて救われたのです。イスラエルの民が長子を聖別するのは、罪人の自分たちが神さまのものとして救われた恵みを覚えるためでした。イスラエルの民は、長子を聖別することによって、罪人の自分たちが神さまのものとして救われた恵みを覚えたのです。
現在の私たちは長子の聖別のようなことをしません。私たちが神さまのものとされるために、主イエスさまが過越の子羊として、ご自分を献げてくださったからです。私たちは、イエスさまこそが私のためにご自分を過越の子羊として献げてくださった救い主であることを信じ受け入れて、神さまのものとされるのです。
さて、神さまから長子の聖別を命じられたモーセは、「奴隷の家、エジプトから出て来た、この日を覚えていなさい」と、イスラエルの民に命じます。「覚えていなさい」という命令は、忘れることが前提とされています。イスラエルの民はすぐに救いの恵みを忘れてしまうのです。だからこそ、モーセは「覚えていなさい」と命じているのであり、覚えているために種なしパンの祭りや長子の聖別が定められているのです。
イスラエルの民は忘れやすい人々でした。しかし、忘れやすいのはイスラエルの民だけではありません。私たちも同じです。私たちも忘れやすい者なのです。
忘れやすいイスラエルの民に、種なしパンの祭りや長子の聖別を命じられた神さまは、私たちを毎週の礼拝に招いていてくださいます。忘れやすい者だからこそ、神さまは私たちを毎週の礼拝に招いていてくださるのです。毎週の礼拝において、私たちは、主イエスさまによって、神さまのものとされている救いの恵みを覚えるのです。
私たちは神さまのものです。他の誰のものでもありません。自分自身のものですらありません。神さまのものです。神さまこそが私たちの人生に責任を負っていてくださる方です。
毎週の礼拝において、イエスさまの十字架の死と復活のみわざを見上げながら、神さまのものとされている恵みを覚えて、新しい一週間の歩みへと遣わされていきましょう。
祈り
神さまから離れた罪人の私たちが、イエスさまによって、神さまのものとされている恵みを覚えて感謝します。イエスさまの十字架の死と復活のみわざを見上げながら、神さまのものとして新しい一週間をスタートさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。